8月


13日
乾隆帝(けんりゅうてい)(1711〜1799)中国、清朝の第6代皇帝

清初の功臣エイドゥの曾孫女ニオフル (鈕 禄) 氏を生母として生まれました。雍正帝の第4子。幼少より祖父の康煕帝に愛され、25歳で皇太子密建法により即位し。祖父の在位期間をこえることをはばかり、60年間帝位にあったのちに退位して太上皇帝 (上皇) となり。上皇時代も事実上の権力者となっています。実質的な在位期間は中国歴代皇帝で最も長い。

彼は康煕・雍正帝時代の財政的蓄積と確立された皇帝独裁権を継承し、当時の商品生産の発展と相まって文化的にも爛熟した「康煕、乾隆の盛治」と称される清朝の最盛期を現出しました。

治世の初期には軍機処を軸として皇帝権の伸長に努め、朋党、皇族の結党を禁じ、満州人と漢人の反目を防ぐなど内治に重点をおきましたが。中期には外征に力を尽くし、モンゴルのジュンガル部を、内紛に乗じて制圧し、天山北道・南道を 完全に支配し、さらにチベットを制圧し、南方のビルマもベトナムも内乱時に介入して朝貢国にしました。やがて、タイやラオスも朝貢するようになり、朝鮮・琉球も衛星国となっていきました。このように中国のほかに内外蒙古、新疆、台湾、チベットを領土としたので、中国領土は最大のものとなりました。彼は、辺境に10回出兵して全部戦勝したので、自分のことを「十全老人」と号したほどでした。

しかし、この多くの外征と各地への巡行、さらに天壇、紫金城、円明園などの新改築などのため財政は疲弊し、加えて旗人の生活苦、寵愛した和しんの専権などがあり、末期には各地に反乱が発生し、衰運のうちに嘉慶帝に譲位しました。

文化方面でも、多くの学者を集めて書物の編集にあたらせ「四庫全書」の編集は特に名高く、また、イエズス会宣教師によりヨーロッパの学問、技術が伝えられました。
乾隆帝と満漢全席
近代中国料理の中で最大にして最高の宴席と高く評価されている満漢全席。この宴席の由来は、乾隆帝が楊州を訪れたとき富豪の塩商人が山海の珍味を集め満州族と漢族の料理を結合させて大規模な宴席を構成し、満漢料理を一定の形で同じに供したのが始まりだそうです。ちなみに、その宴は料理の数が多いので間に観劇や詩歌を作って遊ぶなどの休憩をはさんで2〜3日かかりの大宴席となるということです。
乾隆帝は中国史上もっとも創作の多い詩人でもあり、その作品数は全唐詩の総数に匹敵する十万余首にものぼっています。乾隆帝は無意識の内に詩をもって行事を記し、詩をもって歴史を記したといわれており。国の重要な政治活動や重要な施設に関して詩で記し、豊作を祈り雨や晴を願った「夜雨」などの詩も残しています。また、巡幸に出かけた際にも、訪れる先々で詩を作り、書き留めていて、この乾隆帝の詩碑は現在でも多くの中国の名所旧跡に見ることができるそうです。
香妃のお話
乾隆帝が清代に莎車(現・新疆省)を陥落し、都へ連れ帰った美女。カシュガルの王妃イクバル・ホージャ
乾隆帝が香妃に執心を燃やした理由は、その姿が美しいことに加え、体からなんともいえない芳香が放たれていたためだという。 回教徒の香妃は、心から愛していたカシュガル王に操をたて、夫を戦いで失い敵の乾隆の前に立たされたとき、どんな贈り物も甘い言葉も拒絶して、帰国か自殺を許してもらうよう訴えた。 乾隆帝はそれを許さず、狩猟などに伴わせその心を惹こうとした。
しかし母の太后が、この異国の女に息子が夢中になって政治を忘れることを慮って、ひそかに香妃に会いその死を許す。
香妃は三度頭を下げて礼を言い、自らの命を絶った。乾隆帝が急いで駈けつけたが間に合わず、部屋には香妃の芳香が濃く漂っていたという。中国古代の妙薬に、毎日十二錠服用すればその日から口臭はなくなり、二十日で体から芳香がするようになり、二十五日すると顔や手を洗った水さえ匂ってくるとされるものがあり、この薬を香妃が常用していたといわれ、その製剤法は今も伝え続けられているそうです。
乾隆帝は非常なお茶好きで、お茶だけでなく、茶器や水についての研究も非常に熱心 しかも相当詳しいようで、歴代の中国皇帝の中、88 歳まで生きた超長寿 の皇帝です。それはお茶以外に、乾隆帝の「修身養性」にも関係がありますが、お茶 の影響について、乾隆帝自分が「君不可一日無茶」と言ったほどの愛茶人 です。

その乾隆帝がよく変装して色々な所を視察した事も有名です。当 然、一人で出かけると危険なので、常に護衛達と一緒になります。江南視 察のある日、乾隆帝がある茶館へお茶飲みに行き、茶館で大銅壷(大きい 茶壷)を持った店小二(ウェイター?)が数十センチ離れた高さからお茶を零さずにお客様の茶杯に入れて行くパフ ォーマンスに感動し、乾隆帝が思わず立ち上がって、店小二から 大きい茶壷を借り、自分について来た護勇(用心棒)達の茶杯にお茶を入 れ始めました・・・
乾隆帝にとってただの遊び心なのですが、用心棒達から見ればもう大変です!皇帝が自分達の為にお茶を入れる行為があり得ない事です! 普通、全員を揃って跪き、万歳三唱すべきですが、それをしてしまうと乾 隆帝の身分がばれてしまい、これからの行動に支障が来たします。
慌てた用心棒達がとった行動は、跪くように指で机に向かって、頭が地 につくような礼をしたそうです。後になって、乾隆帝が用心棒達にその意味を聞いて大笑いしたそうです。
それ以来、人からお茶を受けると「恐れ入ります」や「ありがとうござ います」の代わりに指で机を軽く敲く風習が公認の「礼」としてずっと現在に伝わっているそうです。
現在の総合大型商店のことを、一般に「百貨商店」と呼びますが、その由来は一説によると、清朝乾隆年間、南中国に一軒の雑貨屋がありました。商売は繁盛し、店の品の種類もそろっていて、主人は自分の店に「萬貨全」と名付けました。
ある日、乾隆帝がひそかに南方に出向いた時、この看板を見、ここの店主は風呂敷きが大きいのではと思い、わざとからかってやろうと思いました。彼は店に入り番頭に 「糞叉子(家畜の糞を突刺す道具)をくれ」と言いました。番頭は即座に何本が出してきました。しかし乾隆帝は 「鉄のは要らない。金のが欲しいのだ」番頭はこれは手に負えないと思い、主人を呼んで来ました。店主はただ 「手前どもの店には金の糞叉はございません」と事実を言うしかありません。 「おまえの店は“萬貨全”というのではないのか?」店主はとたんに言葉を失い、急いで番頭に看板をおろさせてからいいました。 「手前どもの品には限りがございますゆえ、今後“萬貨全”などとは申しません。お客さまに何か良い屋号を付けて頂きたく存じます」乾隆帝は即座に「それなら“百貨全”はどうだ」 まもなくそれが伝わり、以後百貨店という名称は多くの商家に使われるようになったということだそうです。
北京の蘇州街
その昔、乾隆帝が皇太后、つまり母君のお誕生日の為にその一帯を蘇州に似せた町並みにしたことからその名前がついたといいます。乾隆二十六年、孝聖太后の70歳を祝ったときに、乾隆帝は蘇州を模した町並みを作らせたようです。道の両側には明かりがともされ、10歩ごとに舞台が設けられ、5歩ごとに楽団が陣取っていたといいます。その全長3里、まさに蘇州の繁華街を思わせるものだったそうです。そしてそれは年を追うごとに華やかになり、乾隆の末年には10里を超し、乾隆の次、嘉慶五年まで続いたといいますが、その後あまりの浪費に蘇州街は廃止されました。ただ、万寿寺の廟会の期間だけ元の蘇州街の一帯に自由に市を設けることが出来たといわれています。


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