8月


10日
大久保利通(おおくぼとしみち)(1830〜1878) 明治の元勲

薩摩藩の下級藩士の長男・一蔵として生まれました。生後間もなく下加治屋町に移り、西郷隆盛らと同じ郷中で幼少より特に親交がありました。17歳のとき藩の記録所書役助として出仕。1850年、嘉永朋党事件(高崎崩れ)に連座して免職となりますが、島津斉彬が藩主となったことで許され、1853年復職しました。その後西郷らと結び改革派の中心となっていきます。

斉彬のもとにあつまった改革派下士層とくみ、急進的尊王攘夷派を結成しましたが、藩庁との抗争をさけ、斉彬死後に藩政の実権をにぎった島津久光の信任をえて藩の中枢へはいり、たくみに藩論の統一をはかり、事態の動きに応じて藩の枠をこえて活動し、討幕運動を主導しついに18677年王政復古をはたしました。

しかし明治新政府は、出身、利害、考えを異にする雑多な集団の脆弱な連合に過ぎず、彼は薩摩藩の指導者として新政府の中枢に入り、列強に対抗できる強力な集権体制の樹立に全力を傾注しました。東京奠都(てんと)、版籍奉還、廃藩置県等の改革を成功させ、1871年大蔵卿となり内政確立をめざし、11月には岩倉遣欧使節団の副使として欧米各国を巡遊し、政治や経済の実情を学びました。特にドイツの宰相ビスマルクからは強い影響を受けたといわれています。

征韓論問題にはじまる1873年の明治6年政変後は、新設した内務省長官の内務卿として実権をにぎり、強権発動で士族反乱や初期の自由民権運動などをのりきり、岩倉使節団での視察を生かし上からの富国強兵・殖産興業策をおしすすめ、明治国家の基礎をかためました。

しかし、その近代化、欧化政策は旧士族層の怨嗟をかい、旧薩摩藩士族に擁立された西郷隆盛による西南戦争を山県有朋指揮下の政府軍によって平定。太政官政府を武力内乱による危険から除いた翌年、宮中にむかう途中を石川県士族島田一郎によって東京紀尾井坂で殺害されました。
元勲(げんくん)
国家に尽した大きな勲功。また、その勲功のある人。とくに明治維新に大きな勲功のあった西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通らをいう。
大久保は「知」の人といわれていますが、囲碁は彼の趣味の一つでした。彼は、島津久光に接近するため久光の好きな囲碁を習い始めたといわれます。彼の日記には、碁に関する記事がよくみられ、碁の相手に伊藤博文・五代友厚・黒田清隆・松方正義等多くの名前が書かれています。昭和43年日本棋院から、名誉7段の免状が与えられているそうです。
廃藩置県
明治新政府は、旧幕府領や戊辰戦争で抵抗した藩の領地を没収して、府県を設置しました。当初、府は東京・京都・大阪の三都や長崎・新潟の開港地など政治・経済上の要地に、県はそれ以外の地に置かれました。
新政府は、当初、旧藩の名前や領地をそのまま残す形で3府302県を設置しました。この時、さほどの混乱もなかったので、4ヶ月後には3府72県に、そして、1876年には3府35県に統廃合されました。そして、この過程で、新政府に抵抗した藩は、県名から消されてしまったのです。当時、大蔵卿であった大久保利通と大蔵省の役人たちが考えたことと言われています。
新政府側についた雄藩は、そのまま藩名が県名として残っています。薩摩・長州・土佐藩の正式な藩名は鹿児島・山口・高知藩で、その大部分は大名の居城があった城下町に由来しています。したがって、このような藩は、今日、県名と県庁所在地名が一致しているのです。それに対して、新政府に抵抗した藩は県名として残らなかったために県名と県庁所在地名が一致していないのです。


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