8月


5日
ギイ・ド・モーパッサン(Guy de Maupassant)(1850〜1893)フランス 小説家

ノルマンジーのディエップで。父ギュスターブ、母ロールの間に長男として生まれました。父は魅力に富んだ好青年でしたが、至って凡庸でかつ女好きの田舎の紳士。母はノルマンディーの旧家出身で気性の激しい気品高い美人でしたが、強度のノイローゼが持病でした。

裕福な家庭に生まれ、かなり贅沢な少年時代を送ったようですが。11歳の時に両親が離婚。母と弟と共にベルギーに移りました。母ロールはフロベールの親友の妹でありモーパッサンは母を通してフロベールから文学の手ほどきを受けました。

普仏戦争に参戦後、ゾラ、ゴンクール兄弟、ドーデとも交流を持つようになる。そして、30歳の時に「脂肪の塊」で文学界にデビューし、一躍有名になりました。

彼は、それ以前にもフロベールの指導のもと詩作にも力をいれており。「水のほとり」などで、文学界の一部には認められていたのですが。1880年に「脂肪の塊」が出版されて以来1891年までの間に、モーパッサンは300近い中・短編と、「女の一生」「ベラミ」、「モントリオール」、「ピエールとジャン」、「われらの心」、「死のごとく強し」の6つの長編と、「太陽の下へ」、「水の上」、「放浪生活」の3つの紀行文を書いています。

毎年60編程の中・短編を書き上げるというすばらしい才能でしたが、1886年頃から20編ぐらいに激減、年を追うごとに作品数は少なくなっていきました。1889年に最愛の弟エルヴェが狂乱死してしまい、精神錯乱に脅かされていた彼に激しい不安を抱かせました。そんな状況の中でも「水の上」、「死のごとく強し」などの作品を仕上げていましたが。ついに1891年狂気の兆候が現れ、そして翌年には自殺未遂を起こし。1893年にパシー精神病院にて自己を取り戻すことなく死亡。43年の生涯を閉じました。
フロベール
フランスの小説家。的確・精緻な表現で、リアリズム小説を芸術的に高めた。正確にある事象を表現する語は一語しかないという一語説は有名。また、モーパッサンを弟子として育てた。作品「ボヴァリー夫人」、短編集「三つのコント」など。
女の一生
ノルマンディーの貴族地主の家に生まれ、修道院で学び、清純な娘に成長したジャンヌは、近所の貴族の息子ジュリアンに激しく愛し合い、婚約するが、夢多い新婚生活に入ると、エゴイストで欲の深い夫は、ことごとくジャンヌの希望を踏みにじり、打ち砕いてしまう。彼は彼女の小間使いのロザリーに子供を産ませ、さらに、F公爵夫人と密通し、ついにその夫公爵の知るところとなり、激怒した彼の手で殺されてしまう。未亡人となったジャンヌはジュリアンとの間にできた、一人息子の成長に望みをかけるが、このポールも成長すると、放蕩息子となり、母からお金をせびり取ったあげく、無一文に彼女を捨てて、情婦とともにイギリスに出奔してしまう。結局ジャンヌは昔の小間使いロザリーの世話を受けながら、息子のポールが女に産ませた子供を、わが手で育てることにする。
脂肪の塊
普仏戦争に負けたフランス。ノルマンディーはルーアンの地をプロシア軍が占領し始めてきた。ドイツ士官の力を借りてルーアンから移動を考える人々がいた。その一行の中にある娼婦がいた。人々は最初は嫌悪感を感じていたが、次第に打ち解けてゆく。ある日、ドイツ士官が移動を中止する。それは、士官がその女を誘ったが、女が断ったからだったのである。みんなは女に士官の要求を聞いてくれと説得する。女は嫌がったが、みんなのためだと思い、士官の言う通りにしてしまう。その後は、うまく移動してゆくのだが、なんと今まで仲良くしてくれた人々が、突然、その女に冷たくなってしまうのだ。同行していた男が、その状況を風刺しながら詩を歌う。

8月


5日
玄宗

(685〜762)

中国の唐の皇帝

712年に唐の6代皇帝の位につき、翌年年号を開元と改めました。彼は、即位すると不要の官職を除くなど官制を一新し、土地を不法に占有している者からその土地を取り上げて、流民を戸籍に編入して、空き地を与えて耕作に従事させました。また府兵制(徴兵制)を改めて募兵制にし、節度使を辺境の要地におくなど、「開元の治」といわれるほど良い政治を行ったため、党派隆盛をきわめ、平和が続き、産業がさかえました。また、書画や書道、彫刻などの芸術も、文芸も盛んになりました。

しかし、次第に政治に倦み、特に寵愛した武恵妃を失ってからは、美女を捜す使いを全国に出したりもしています。そして、玄宗の第18子の寿王の妃であった「楊貴妃」を見初め。彼女を寿王と離別させ、愛し合うようになってからは、彼女の一族は、それだけで高位・高官に抜擢され、とくに楊貴妃の従祖兄の楊国忠は宰相にまでなっています。

宮廷生活はおごりをきわめてゆき、政治は乱れて、多くの人たちが生活に苦しむようになってゆきました。そのため、755年に、節度使の安禄山が、「姦臣楊国忠を除く」と称して、范陽で挙兵した反乱の兵を上げ、彼は楊貴妃と共に四川にのがれようとしましたが、途中、兵士達は楊国忠を殺し、さらに楊貴妃を殺せと要求しました。彼はやむなく宦官の高力士に命じて、楊貴妃を仏堂の中で絹で絞殺させたのです。

その後、彼は蜀に逃れて、子の粛宗に位を譲り、長安が回復されると、長安に戻りましたが、粛宗との間がうまくいかず、幽閉同然の余生を送り、失意のうちに亡くなりました。


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