8月


4日
吉田松陰(よしだ しょういん)(1830〜1859)江戸時代末期の志士

長州藩士、杉百合之助の子として、長門国(山口県)萩松本村に生まれました。その後叔父吉田大助の養子となっています。10歳で明倫館に出勤、11歳のとき藩主敬親に兵書を進講し秀才振りを示しました。兵学を叔父玉木文之進・林百非・山田字衛門・山田亦介に学び、18歳で山鹿流軍学の免許皆伝を受け、19歳で独立の師範になっています。

その後、九州を遊歴し、江戸に出てさらに東北遊歴など全国を旅して識見を高めました。朱子学・陽明学・国学にも通じ佐久間象山に洋学を学びその関心は兵学の枠を超えていました。脱藩して東北の旅に出掛け士籍を削られています。

そして世界の情勢を見極めるために、海外密航を決意し、下田市蓮台寺の蘭方医「村山行馬郎」の邸に寄寓し、柿崎弁天島より、ペリーの旗艦ポーハタン号に乗り付けた。しかし、海外渡航は国禁であり、拒絶され松陰等は自首して捕らえられ、「平滑(ひらなめ)の獄」に拘禁され、その後、江戸から萩の野山獄に移されました。

萩にあって読書と著作に専心していましたが、1857年叔父の残した松下村塾(しょうかそんじゅく)を引き継ぎ、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤利輔(博文)、山形小輔(有朋)らの多くの子弟を教え、尊皇攘夷の思想を教えました。

松下村塾での彼の教育は、人格の修行を柱とし、社会に有用な人材の育成を眼目とするもので、塾生の個性を尊重し、常に当時の世界の形勢、日本の実情にたって、内憂外患の危機状況にいかに対処して行動するべきかという強い問題意識に支えられていました

しかし、幕府の老中間部詮勝の要撃を企てるに及び野山獄に再投獄されてしまい、その後、江戸に移送され伊井大老の安政の大獄に刑死しました。
遺骨は江戸に葬られましたが、萩では松陰の実家杉家と協力して門人らが処刑後百か日に当たる万延元年2月7日ここに遺髪を埋葬しました。
当時、罪人松陰の墓碑造築に協力することは相当の覚悟を要したのですが、更にに墓前の石燈篭、花筒、水盤の前面側面には、門人の久保清太郎・佐世八十郎・久坂玄瑞・岡部富太郎・福原又四郎・松浦亀太郎・ 増野徳民・品川彌二郎・伊藤利輔・入江九一・。野村靖・中谷正亮・ 高杉晋作・有吉熊次郎・天野清三郎・作間忠三郎・時山直八らの名ガ刻まれており、門人達の決意を示しています。墓石の表面には「松陰二十一回猛士墓」、裏面には「姓吉田氏、通称 寅次郎、安政六年己末十月二十七目於江戸歿、享年三十歳」とあるそうです。

かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂
下田から江戸に護送されて、品川の泉岳寺を通り過ぎたときにつくったの和歌

松下村塾で学んだおもな人物と明治時代の略歴

高杉晋作(1839−1867) 幕府軍との戦いで長州藩を指揮。
伊藤博文(1841−1909) 伊藤利助。のちに宮内卿、初代総理大臣。
久坂玄瑞(1840−1864) 禁門の変で負傷して自刃。
前原一誠(1834−1876) のちに参議、兵部大輔を経て萩の乱で断首。
山県有朋(1838−1922) 陸軍卿および総理大臣。陸軍の最高指導者。
山田顕義(1844−1892) 参議、司法卿。日本大学と國學院大學を創立。
品川弥次郎(1843−1900)農商務大輔、内務大臣。
井上馨 (1835−1915) 井上聞多。外務卿として条約改正に当たる。
木戸孝允(1833−1877) 桂小五郎。薩長同盟を結ぶ。のちに参議。


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