8月


3日
新渡戸稲造(にとべいなぞう)(1862〜1933)農政学者、教育者、思想家

現在岩手県盛岡市で新渡戸十次郎の三男として生まれました。彼は幼名を稲之助といいましたが、この開拓の土地に初めて稲が実ったのを記念して名付けられたものです。

10歳にして上京、東京英語学校から一転、札幌農学校に転じました。彼はここで「少年よ大志を抱け」のクラーク博士の教えを受け、博士に心酔して洗礼を受けキリスト教徒になっています。彼は、この札幌農学校で生涯を通じた合理主義・自由主義・国際人としての基礎を培ったといえます。

その後、明治16年東京帝国大学に入学、英文学、理財学、統計学を学びますが、その翌年、アメリカのジョン・ホプキンズ大学へ留学、更にドイツにも留学して農政学などを学びました。また、米国留学中知り合ったフィラデルフィア出身のメリー・エルキンスとの結婚はフレンド派教徒新渡戸の信仰と思想の実践に決定的影響を与えたといわれています。

明治32年にカリフォルニアで静養中に書いた英文「BUSHIDO-THE SOUL OF JAPAN」は日本民族の道義と倫理の根本を実証し、この本ほど、欧米の指導層・知識層に愛読され、版を重ねた書は現在もないといわれ。日本文化の海外への紹介に大いに貢献することになります。

帰国後、北海道の女子校北星学園の運営に関わり、同学園の命名者になった後、明治39年、第一高等学校の校長、大正7年東京女子大初代学長、を歴任。更に昭和3年には女子経済専門学校(現東京文化学園)の初代学長にも就任しました。特に1906年(明治39)東大教授と併任した旧制一高校長時代に特色を発揮し、当時の門下生から若き自由主義者の逸材が輩出しています。更にに女性の教育においても多大の貢献をしています。

「われ大平洋の橋とならん」という言葉は彼の生涯のシンボルとして有名ですが。西洋の文明を日本へ、日本の文化を西洋へとは、彼の悲願でした。思想家としても国際連盟事務次長としても、この悲願を実践しましたが、満州・上海両事変の突発は新渡戸の思想と実践に大きな苦悩を与え、昭和8年10月カナダのバンフで開催された太平洋会議に日本代表の委員長として出席したが、会議終了後病で倒れ、ビクトリアで客死しました。
現在、盛岡市とビクトリア市は新渡戸を縁として姉妹都市となっています。ビクトリア市の太平洋を望む丘には、盛岡の岩手公園にある記念碑と同じものがたてられています。
昔々、現在の十和田市のある「三本木原台地」は、街道の目印として植えられた所々の松があるだけの、水も無い草ぼうぼうの荒野でした。 ここに開拓の鍬を入れたのは、彼の祖父・南部藩士、新渡戸伝(つとう)でした。
曾祖父の維民は仕事上の失敗によってこの地に流されたのですが、その息子の伝は藩の勘定奉行を務めてこの地を開拓、。周辺農民の大いなる労役や優れた土木技術の導入などもあり、ついに安政六年、稲生川(いなおいがわ)に通水成功! 続いて開田をすすめ、また、当時としては画期的な都市計画と言える、幅広い道を持った「碁盤の目」の市街地を造成しました。これは、ほとんどこのまま現在の市街地になっています。
これほど大きな活躍をした人がお札になるまで全く一般に知られていなかったというのは、非常に不思議なことなのですが、彼が活動した時代の日本は戦争への道をひた走っており、逆に、このような国際人の存在は当時の軍部にはあまり嬉しくなかったためではないかと思われています。


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