8月


1日
団琢磨 (だんたくま)(1858〜1932) 実業家、三井財閥の指導者

福岡藩士馬廻役の四男として生まれました。寺子屋に通い漢籍を習い、12歳のとき福岡藩海外留学生だった米国帰りの平賀義質に英語を習い始め、そのころ上級武士の家格のある団尚静の養子になっています。その養父について上京し、藩邸で金子堅太郎と出会いました。

そして、13歳のとき、岩倉具視ら特命全権大使の欧米視察団に同行。そのままアメリカに在留し、琢磨はマサチューセッツ工科大学(MIT)で鉱山学を学び、1878年大学を卒業し米国から帰国しました。

琢磨は大学で学んだ鉱山学を生かせると意気込んで官営三池炭礦へ就職しましたが、そこでは長州閥に頭を押さえられ、窓際族の辛酸をなめます。しかし、三井の実力者、益田孝が彼の実力を買って民間払い下げの三井鉱山への就職します。

彼は益田の期待を裏切らず、手始めに三池の港を整備し、鉄道を敷き、大牟田川をしゅんせつし出炭量を飛躍的に高めた「三大工事」を成功させ、その上で巨額投資を必要とするポンプを輸入して水没した勝立坑の排水問題を解決した。経済合理性を貫いた琢磨の采配に益田は感心し、信頼を高めていった。

明治三十年代、三井鉱山の利益は三井銀行を追い抜き、三井物産と肩を並べるようになり、三池が「三井のドル箱」といわれ、三井財閥形成の原動力となりました。こうして彼は、三池をバックに三井財閥の中で発言力を強め、益田の後を受け三井合名会社理事長に就任、三井の最高指導者に。さらに工業倶楽部の理事長、そして日本経済連盟の会長など、昭和初期における財界の最高指導者として活躍しました。

しかし、昭和7年3月5日、東京・日本橋の三越本店寄り三井本館入り口。車から降りた瞬間。血盟団員の1人に胸を撃ち抜かれ、手当てのかいなく亡くなりました。
それから二カ月後、五一五事件が起こり、首相の犬養毅は海軍将校らに官邸で襲われ「問答無用」と射殺されました。日本は右傾化し軍国主義の坂道をころげ落ちるように、ブレーキの利かない暗い時代へと突き進んでいったのです。

今日紹介した、団琢磨氏は、作曲家団伊玖磨の祖父にあたります。

8月


1日
ハーマン・メルビル

(1819〜1891)

「ああ、愚かな人間よ、ノアの洪水はまだ退いてはおらぬ、優に世界の3分の2をまだ覆っているではないか」

アメリカの小説家、詩人

ニューヨークの古い家柄の貿易商の家に生れました。しかし少年時代に父が破産、彼が16歳の時に亡くなってしまいました。そのため、十分な教育を受けられず、平水夫として商船に乗込み、21歳になってからは4年間捕鯨船や軍艦の乗組員として放浪生活をおくりました。

その間、南海の食人種に捕まったり、水夫たちと反乱を起こして監禁されたりして波乱万丈の体験をし、1884年ボストンに帰還しました。彼は、その経験をもとに南海の冒険譚「タイピー」「オムー」を出版しベストセラーとなりました。


その後も「マーディ」「レッドバーン」「ホワイト・ジャケット」等の海洋小説を出版し、1851年に傑作「モービー・ディック (白鯨) 」を刊行しましたが、当時はまったく受入れられませんでした。その後の作品も、評判は芳しくなく、晩年は詩作に転じ聖地巡礼を主題にした長詩「クレアレル」など数冊の詩集を残しています。

彼の晩年は税関に勤めるなど、世間から忘れ去られた生活をおくり、ついに生前にはその真価を認められることはありませんでした。

単なる勇猛果敢な海の男の冒険小説と思われていた「白鯨」でしたが、ようやく1920年ごろになって、作者の意図と作品の真価が知られはじめ、今日では、世界の傑作の一つと謳われ、世界10大小説の一つと評価されています。
世界10代小説・・・そういえば、先日のエミリーブロンテの時も「彼女が亡くなってから、「嵐が丘」の評価は年を経るに従って高まってゆき、サマーセット・モームは、「世界十大悲劇」に入れ、詩人ブランデンは「リヤ王」「白鯨」とならび英語文学の三大悲劇と称しています。」と紹介しました。彼女は1818年7月30日生まれ・・・誕生日が近いと運命が似る事もあるのかもしれません。


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