7月


31日
柳田国男(1875〜1962)民俗学者(日本民族学の開拓者)

兵庫県田原村辻川に医者松岡操の6男に生れました。彼の兄には井上通泰、弟には松岡映丘がいました。 最初文学に志し、詩集を作ったり短歌の投稿をしたりして、森鴎外・田山花袋・尾崎紅葉らと交流します。やがて東京帝国大学の政治科卒業後、農商務省に勤務、1901年柳田直平の養子となり。法制局参事官,貴族院書記官長を歴任しています。

明治41年の夏、彼は九州・四国を旅行したのですが、このときに宮崎県の秘境・椎葉村に一週間ほど滞在、村長の中瀬淳氏から古い伝承を聞き、こういう世界に興味を持ちます。その年彼の自宅を岩手県遠野出身の文学青年・佐々木喜善が訪問しました。佐々木が郷里で聞き知っていた昔話に柳田は強い関心を寄せます。

そして翌年夏遠野を訪問、その翌年明治43年に「遠野物語」の初版を出版します。この物語集はもっぱら柳田が佐々木や彼の協力者たちが集めてくれた話を整理したものです。最初の版が出てから大きな反響があり、結果的にこの時点から柳田は農政学者から民俗学者に移行することになる訳です。

大正8年、朝日新聞社に入りのち顧問となりました。晩年まで民俗学を中心とする研究に従事し、公私の旅行を利用して全国の口碑伝説を集め、雑誌「郷土研究」を主催しました。また伝承文芸、方言研究などの分野にも多くの独創的研究を成し遂げ、平明な文章と広範な知識によって日本民族学を樹立、普及させました。

日本芸術院会員、日本学士院会員となり、朝日文化賞、文化勲章などを受けています。1909年の「後狩詞記」以後、次々と民俗学研究における業績を上げ、また研究者の組織化と指導に努めました。

著書に「石神問答」「遠野物語」「雪国の春」「日本の昔話」「桃太郎誕生」「方言覚書」等があり「柳田国男集」に収められています。
彼が、遠野物語の続編を作ろうと原稿を整理している最中に佐々木が待ちきれなくなって「聴耳草子」を出してしまったため、拍子抜けして作業が中断してしまう一幕もありましたが、結局昭和10年に有志の人たちによって実現しました。この辺りの事情は折口信夫が書いた後記に記載されています。
日本民俗学の父柳田国男生家
民俗学という新しい学問を開拓し、確立した柳田国男の生家は、「私の家は日本―小さい家だ」、「この家の小さいという運命から私の民俗学への志は発した」という茅葺き屋根のつつましい民家です。記念館には柳田国男を中心に一族の生いたちと業績を伝える資料が数多く収蔵、展示されています。

7月


31日
ウィリアム・S・クラーク

(1826〜1886)

「Boys,be ambitious」

アメリカの教育家、化学鉱物学者

アメリカのマサチューセッツ州アッシュフィールドに生まれました。高校の教師となり、その後、ドイツに留学し、帰国後、母校のアマースト大学の教授になりました。1867年にはマサチューセッツ州立農科大学の学長になっています。わずか41歳での学長就任でした。

当時、日本が欧米各国からかなり遅れていると認識した明治政府は、多くの外国人専門家を招いていました。彼も北海道開拓使・黒田清隆の招きで、現職のまま、長期休暇を利用して1ヵ年の約束で明治9年(1876年)6月、50歳の時に来日し、開校したばかりの札幌農学校の初代教頭に就任したのです。

彼は、約9か月間教べんを執り、近代的農業を教えると共に、キリスト教精神による教育を行い、学生達に大きな影響を与えました。彼が直接教えた生徒 (第1期生)は、わずか11人でした。 あるとき、その生徒11人が、彼に「校則をどのように定めたらよいでしょう」と聞きに行ったときのこと。彼はこう答えただけでした。「Be Gentleman」 (紳士であれ)。

彼の滞在期間は短かったのですが、学生たちに与えた影響はことのほか大きいものがありました。明治10年(1877年)4月16日彼が帰国する際に、札幌から見送りにきていた教え子たちに残した言葉が、有名な「少年よ大志を抱け(ボーイズ・ビー・アンビシャス)」でした。

帰国した彼は、マサチューセッツ農科大学に戻り、1879年まで学長をつとめました。しかし、晩年は、鉱山経営に失敗するなど、比較的不遇であったといわれています。1886年3月9日アマーストで心臓病のため亡くなりました。61歳でした。
北大植物園も、このクラーク博士の提案によるものだそうです。クラーク博士が植物学に興味を持ったのは、ドイツ留学の途中に立ち寄った、ロンドンのキュー植物園で見たオオオニバス(Victoria regia)に魅了されてのことで、非常に感動し、魅了された彼は、できることならアメリカにも植物園を造りたい、そしてそこにこれと同じ素晴らしい睡蓮を咲かせたいと心に決め、アメリカ西部の鉱山地帯に自分の運命を切り開くのを止め、アマースト大学で教えるようになったということです。もし、彼がこのオオオニバスに出会っていなければ、あの名言は生まれなかったかもしれませんね。
札幌農学校は、北海道開拓のための指導的人材を育成することを目的としており、北海道開拓使は、札幌に農学校を開設するに際し、校長は官吏の兼務としましたが、アメリカ人の教頭には新設学校の諸規則、設備、専門科目などを決定する事実上の創始者の役割を与えました。


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