7月


30日
ヘンリー・フォード(Henry Ford)(1863〜1947)アメリカ 実業家

ミシガン州スプリングウェルの貧しい農家に生まれましたた。そこでの農作業は、荷馬車に頼らざるを得ず、また、家業の手伝いは避けて通ることのできない辛い経験だったといわれています。(この経験が、彼に農民も買える廉価な交通手段を人々に贈ろうと決心させたといわれています。)

16歳の時から機械工場の行員として働き、その後、エジソン電灯会社へと移籍し。ここではチーフエンジニアの座にまで上り詰めました。ここで働きながら、ガソリン自動車の製造を研究し1893年には最初のガソリンエンジンの運転に成功し、3年後の1896年には「クアドシクル」という名の小さな4輪車の試作にも成功した。

彼の車は多くの改良を経てその完成度を高めていき、そして1899年には2号車が完成。このクルマの出来に満足した彼は、自動車会社の「デトロイト・オートモービル・カンパニー」を設立します。その後フォード車は彼自身の操縦によってレースで優勝するなど知名度も次第に上がっていきました。

1903年、彼は「デトロイト・オートモービル・カンパニー」を「フォード・モーターカンパニー」へと拡大しました。そして、安い価格で大量生産することを目的として、世界中の人々に、くまなく自動車の恩恵をもたらすべく努力を重ね、ついに彼の夢の集大成として1909年フォード・モデルT、すなわちT型フォードが完成させました。T型フォードは部品の標準化を進め、流れ作業など合理化をはかってその単価を大幅に引き下げることに成功した世界初の大衆車でした。

彼は、フォード・モーターカンパニーに勤務する労働者の賃金を、T型フォードが誰でも購入できるレベルにまで引き上げると言う案を導入し、更に8時間労働制や最低賃金制を採用し、世界的な自動車会社を作り上げていきました。そして、自動車王と呼ばれるようになり、アメリカ産業界に大きな支配力を持っていきました。

その後1918年に長男のエドセルに社長の座を譲り事実上の引退をしましたが1943年にはエドセルの病死に伴って社長に復帰。1945年には孫のヘンリー・フォード二世が復員に社長に就任したことを受けてリタイアしました。1947年83歳で亡くなりました。
1863年に誕生したヘンリー・フォードは、エジソン照明会社在職中、自作でガソリンエンジン自動車を製作、実際の走行に成功した。この新しいエンジンを持つ自動車に目を付けた人々が出資を行い「デトロイト・モーター・カンパニー」を設立、フォードはエジソンを辞してこの会社のチーフエンジニアとなった。そののち同社は「ヘンリー・フォード・カンパニー」へと名を変え、実質上彼の会社となったが、しかしフォードはレーシングカー制作に没頭したため、会社は立ち行かなくなり、1902年、同社を辞職、翌年新たにフォード・モーター・カンパニーを設立することとなる。
 一方名ばかりとなったヘンリー・フォード・カンパニーは、1902年、新たにヘンリー・マーティン・リーランドという技術者を迎える。そしてデトロイトを発見したフランスの探検家キャデラックの名をとって、「キャデラック・モーター・カー・カンパニー」と改名、新たなる一歩を踏み出したのである。これがキャデラックの誕生である。

7月


30日
エミリー・ブロンテ

(1818〜1848)

「夢は水に混じるワインのように、奥深くまでしみ通り、精神の色を変える」

イギリスの女流作家

(3姉妹作家としても有名、姉シャーロット「ジェーン・エア」・妹アン「アグネス・グレー」)

アイルランドのヨークシャーで生まれました。父は、アイルランド出身の牧師で、ロンドンから妻の出身地であるヨークシャーにあるこの教会に派遣されました。彼には女児5人、男児1人の子供たちがあり、女子の3人目がシャーロット、4番目がエミリー、末娘がアンでした。

しかし、ヨークシャーに来て1年後にブロンテ夫人が亡くなり、幼い姉妹たちは夫人の姉に世話をしてもらうことになります。伯母は献身的に姉妹の面倒を見てくれて、彼女たちに細かい針仕事や家事を教えたそうです。

その後、姉妹は寄宿学校へはいりましたが、劣悪な環境や食事に苦しみました。そのため、上の姉2人が栄養失調より急性肺結核で相次いで亡くなってしまいます。(この学校が「ジェイン・エア」のローウッド学院のモデルだそうです)残った姉妹は自宅へ帰って伯母を助けて家事を手伝ったりしていました。

兄を含め姉妹たちは幼いときより詩や散文を創作しており、彼女達は成長すると家庭教師として働きながら詩や小説を書き始めます。

1846年には、妹のアンを含めた三姉妹で詩集「カラー、エリス、アクトン・ベルの詩集」を自費出版しました。これは、当時の時勢柄、男性のペンネームを使用したものでしたが、あまり評価されませんでした。

その後、姉のシャーロットが「プロフェッサー(教授)」を書きましたが、出版社から相手にされませんでした。しかし、1847年に続いて発表した「ジェイン・エア」は、たちまちベストセラーとなり、シャーロットの名声を確立しました。そして、その年の12月に、エミリーの「嵐が丘」とアンの「アグネス・グレイ」を合本として出版したのですが、当初の批評は、下劣で野卑でむかつくような小説ということで評判は余りよくありませんでした。

エミリーは、そうした中で喘息を病み、明くる年の12月19日に成功を知ることなく結核で亡くなりました。30歳でした。
彼女が亡くなってから、「嵐が丘」の評価は年を経るに従って高まってゆき、現在では、イギリス小説の最高傑作の一つとされています。また、サマーセット・モームは、「世界十大悲劇」に入れ、詩人ブランデンは「リヤ王」「白鯨」とならび英語文学の三大悲劇と称しています。
伯母の夫であるブランウェル氏は画家としての心得があり、3姉妹の肖像画を始め多くの絵を残しています。
ブロンテ家は早死が多く、長女と次女は幼くして、シャーロットは39歳で、長男パトリックは31歳で、エミリーは30歳で、アンは29歳で亡くなっています。


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