7月


27日
高橋是清 (たかはしこれきよ)(1854〜1936) 政治家 財政家

江戸幕府の御用絵師とその奉公人との間に不義の子として生まれました。そのために仙台藩の足軽高橋是忠のもとへ養子に出されてしまいます。

11歳の時に横浜に出て英語を学び、やがてアメリカに留学することになりました。渡米した彼は、書類にサインを求められ、意味も分からずにサインをしてしまいます。しかしそれは「3年間の奴隷契約書」で、彼は奴隷としてアメリカで苦労をすることになってしまいます。その後、なんとか1年あまりでアメリカを脱出し、日本へ帰ることができました。

虐待を受けたとはいえ、本場の英語をたたき込まれた彼は、その語学力が認められて、16歳で開成学校(のちの東大)の教師となりました。しかし、友人のさそいにのって酒と芸者遊びにおぼれてしまい、放蕩の責任をとって辞職することになってしまいます。

その後、英語学校の校長、初代の特許局長などをつとめますが、官職を辞して一攫千金を得ようとペルーの銀山開発にのりだしますが、買った銀山はすでに廃坑になっており、彼は多額の借金をかかえることになったのです。

すべての財産を失い、細々と借家住まいをしていましたが、彼の才覚をみとめる政府要人が現れ、大蔵省を出発点として、農商務省入省、商標登録所長、又、専売特許所長を兼務し。正金銀行総裁から、1911年には日本銀行総裁となり、ついには1921年10月原敬暗殺のあとを受けて、政友会総裁、首相となります。

しかし、党内の対立から翌年6月に辞職。その後、1927年の金融恐慌に際し田中義一に懇請され3度目の蔵相に就任。金融恐慌に対し、支払猶予緊急勅令(モラトリアム)や日銀の特別融通などでなどで事態を収拾、沈静化の見通しが立つと在職42日で辞職。以後、犬養、斎藤、岡田3内閣の蔵相として財政問題処理に腕をふるいました。

この間、犬養内閣では、金輸出再禁止を実施して日本経済を金本位制から離脱させ、次の斎藤内閣では、満州事変の拡大や不況対策のための財政支出の増大をまかなうために、全額日銀引受の公債を発行するという新方式を打ち出しました。岡田内閣の成立にあたっては、大蔵次官の藤井真信を推薦して蔵相としましたが、藤井は累計100億円にもなろうかという公債の処理と軍部の要求との間で苦闘して病にたおれ、11月には再度彼が蔵相に復帰し、公債漸減による健全財政主義を掲げて軍部と対峙し、1936年度予算編成にあたっては、閣議で、国防のみに専念して悪性インフレを引きおこすことになれば、国防もまた安固たりえないと軍部を批判し、軍部の激しい反発をうけました。

そして、軍部との対立の中、在任中の1936年2・26事件で暗殺されてしまったのです。
1888年(明治21年)に農商務大臣となった井上馨が是清に、外国から輸入した新式の機械を保護するために、初めて輸入した者に専売特許を与えるような法律をつくるよう指示した際に、是清は次のように答えている。「英国に滞在中に聞いた話であるが、条約改正において日本から外国に求むるべき事は多くあれど、外国から日本に求むるものは少ない。発明の保護は決定せずに残しておいて、条約改正の時にうまく利用する方が日本のためである。」これを聞いた井上も法律を作成しないことに納得したという。以後、1894年(明治27年)の日清戦争の勝利によって日本は列強から認められ、同年の日英通商航海条約締結によって不平等条約の改正が実現した後、1896年(明治29年)には外国人からの特許出願が受け付けられるようになり、1899年(明治32年)にはパリ条約に加盟することとなった。
ある発明狂が棺桶の特許を出願したが拒絶されたため、特許局に抗議を行った。このとき発明狂に追いかけられた是清は、テーブルの周りを七周半も逃げ回ったという。


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