7月


26日
ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw)(1856〜1950)アイルランド出身のイギリスの劇作家

ダブリンの下級貴族の穀物商人の家に生まれました。生家は貧しく、父親は人好きのする人物でしたが、酒飲みで生活力があまりありませんでした。けれども、母親は教養のあるしっかりした女性で、声楽家としてほとんどプロ級の才能があり、家の中には常に音楽が聞こえていたといわれています。

彼の学校教育は小学校程度で、主に独学で勉強し、早くから音楽や絵画、そして演劇に興味を持ち、美術館や劇場が彼の学校でした。1876年ロンドンに出て、先に姉とともにロンドンに出て音楽教師をしていた母親の処に寄宿しながら小説家を目指しましたが成功しませんでした。

その後、美術・音楽・演劇に評論の筆を振るう傍ら、マルクスの「資本論」を読んで社会主義の影響を受け、1884年、穏健な社会主義団体で、後にイギリス労働党の元となったフェイビアン協会の創設直後に入会、以後、同協会の主要メンバーとして、パンフレットに講演に街頭演説にと大活躍しました。彼の著作で社会主義思想をまとめたものに、「知的女性のための社会主義と資本主義の手引き」という大著があり、今なお啓蒙的価値を保っています。

また、彼の辛らつでウィットに富んだ評論の評価は高く、特に音楽と演劇に関しては英米では評論集がたびたび再版され、現在も批評家にしばしば引用されるほどです。

劇作は「やもめの家」を処女作として以後半世紀以上の間に約50編の戯曲を発表し、その奇抜な皮肉と辛らつな破壊力とを社会のあらゆる因習の上に浴びせかけました。また、1903年の「人と超人」以降は、単なる因習打破にとどまらず、「生の力」を唱え、超人へと進化するよう努力するのが人間として生まれた使命であるとして、悦楽に耽り怠惰に流れる人類に警鐘を鳴らしつづけました。

ショーの芝居で特筆すべきは台詞のリズムとひびきの良さです。シェイクスピア以来最大のイギリスの劇作家と言われ、英国その他の英語圏でシェイクスピアに次いで上演される劇作家と言われるのも、台詞の見事さに負うところが大きいといわれています。

1925年にノーベル文学賞を受賞。
ジョージ・バーナード・ショーはその巧みな力強い話術をどうやって身につけたかを問われた時、このように答えました。

 「ちょうどスケートを学んだのと同じ方法ですよ。ともかく何回もへまを繰り返して笑い者になり、それに慣れるようにしたのです。」彼はロンドンでも一番の内気な若者でした。彼はよく知らない人達の家のドアがノックできなくて、20分以上も通りを行ったり来たりしたものでした。 「私ほど臆病で、そのことをひどく恥じていた人というのは、まずいないでしょう。」彼はそう告白しています。しかしショーはついに、内気さと恐れを克服するための方法を思い付いたのです。自分の弱点に取り組み、それを一番の長所にしようと決心したのでした。彼は討論クラブのメンバーになり、ロンドンで大衆討論会というものがあれば、必ず出席しました。そしていつも立ち上がって、議論で積極的に発言することを自ら強いたのです。そのようにして練習を積むことによって、ジョージ・バーナード・ショーは、20世紀前半でも指折りの、確信に満ちた雄弁家の一人となったのです。
「銭の花は白い…」というナレーションではじまる有名な、「細腕繁盛記」の原作者、花登筐(はなと・こばこ)という名前は、バーナード・ショー にあやかって付けた名前だそうです。筐は「しょう」とも読む。
バーナードショーの残した言葉

「食物に対する愛よりも真剣な愛はない」

「人が虎を殺そうとする場合には、人はそれをスポーツだといい、虎が人を殺そうとする場合には、人はそれを獰猛だという。罪悪と正義の区別も、まあそんなものだ」

「人間は、自分の状態を、いつも状況のせいにする。私は、そんなことは信じない。この世で成功する人とは、立ち上がって、自分が望むような状況を探し回り、もし見つからなければ、それを作り出す人だ。」

「うそつきに与えられる刑罰は、少なくとも彼が人から信じられないということではない。むしろ彼が誰も信じられないということである。」

「みじめになる秘訣は、自分が幸福であるか否であるかについて、考えるひまを持つことだ。」

「結婚をしばしば宝くじにたとえるが、それは誤りだ。宝くじなら当たることもあるのだから。」

「有能な者は行動するが、無能な者は講釈ばかりする。」

「いつも自分を磨いておけ。あなたは世界を見るための窓なのだ。」


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