7月


25日
小磯良平(1903〜1988)画家

兵庫県神戸市中央区で生まれました。1925年小磯家の養子となっています。東京美術学校西洋画科在学中の1925年第6回帝展に「兄妹」が初入選し、翌26年には「T嬢の像」が特選を受賞しています。

卒業後、1928年〜30年滞欧渡欧し、アングル、ベラスケスらの技法を学び、サロン・ドートンヌにも出品しました。

帰国後、帝展や光風会に出品するが、帝展改選に伴い1936年新制作派協会を結成しました。第2次世界大戦中は従軍画家として戦争画を描きました。

1940年朝日文化賞、1941年第1回帝国芸術院賞を受賞。戦後は1953〜1971年東京芸術大学教授。1983年に文化勲章を授章。

卓抜な描写力を基礎とした西洋的な感性の中に日本的油絵を確立させる。人物・女性群像をよくし、近代日本洋画界において代表的な作家。1988年12月16日逝去。

7月


25日
石坂洋次郎

(1900〜1986)

昭和期の作家

青森県弘前市に生まれました。小学校6年生の時に近所の友達とコンニャク版の雑誌をつくり少年小説や冒険小説を書いていました。中学3年生のころからは、外国や日本の小説を読み漁り、それをまねて詩歌や小説を作っていました。

その後東京に出て、慶応大学国文科に学び、熱心に創作をこころみ、卒業して郷里に帰り、弘前高等女学校(いまの弘前中央高校)の教師となりました。

その横手高女に在勤中、「三田文学」に掲載された処女作、「海をみに行く」が注目され、次いで「若い人」で第一回三田文学賞を受賞します。「三田文学」に5年間連載された「若い人」は戦争へ傾斜しつつあるくらい世相を跳ね返すかのような明るさに満ちており、単行本として刊行されるや、幅広い読者層から圧倒的な支持を受けました。

「暁の合唱」「何処へ」等をはじめ、純文学の立場に立ちながら、ひろく読まれる通俗小説を書き、その代表作に「青い山脈」「石中先生行状記」「陽のあたる坂道」などがあります。また「母の自画像」(「わが愛と命の記録」と改題して発行)の自伝的な作品もあります。

昭和61年10月7日に亡くなりました。86歳でした。
彼が、弘前高等女学校の国語教諭だったとき、彼は、葛西善蔵を芸術上の殉教者であるかのごとく畏敬していました。葛西は、それに甘えて、薄給の新米教師を頼って弘前の旅館に滞在、当然のことのように宿泊費・酒代のツケは石坂に廻され、その取り立てが女学校にまで乗り込んでくるという騒ぎになり、ついに彼は、弘前高等女学校を依願退職、秋田の横手高等女学校に転勤ということになってしまったということです。
ある文学賞の選考の場で彼は、「津軽には、ただ小説を書くというだけのために、妻子を飢えさせ、親類や友人に迷惑をかけて恬として平気でいるという風があります」と発言したそうです。きっとこれは葛西善蔵や太宰治といった「破滅型」の作家たちが意識にあったことでしょう。

ちなみに彼は、昭和41年、66歳の時に、第十四回菊池寛賞を受賞していますが、そのときの受賞理由は「健全な常識に立ち明快な作品を書き続けた功績」というものだったそうです。
葛西善蔵
芸術のため家庭を捨て、書く苦しさのため酒に浸る壮絶な生活の中で独自の私小説を追求し七十編近い作品を残した。主な作品に「哀しき父」「悪魔」「馬糞石」「不能者」「椎の若葉」「湖畔手記」など。
彼は「若い人」のなかで「天皇陛下は黄金のお箸でお食事をなさるんですか」「海軍士官の短剣は鉛筆を削ったり、果物の皮をむいたりするんです」などと書いたため、不敬罪、軍人誣告罪に問われ、教員を辞職するはめになりました。
コンニャク版の原理

まず底の浅い箱状の器にゼラチンを流し込んむ。次に、濃度の高い染料インキで紙に文字を書き、この紙をゼラチン面に当てて、ゼラチン面にインキを転写する。ここに印刷用紙を乗せて軽く押さえると文書が複製できる。条件がよければ数十枚の複写ができた。


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