7月


24日
アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas)(1802〜1870)フランス 劇作家 小説家

フランス北部エーヌ県の小さな街ヴィレール=コトレで、旅館の主人でその昔、王妃マリー・アントワネットの竜騎兵だったという経歴を持つ父親トマとマリー・ルイズとの間に生まれました。

彼はパリに出るまでの20年間、ほとんど学校教育を受けず、ヴィレール=コトレの父の経営する旅館で過ごしています。

17歳の時シェークスピアの「ハムレット」をみて劇作家になろうと決意し劇作家の道を志すようになります。その後、「アンリ3世とその宮廷」が大成功、その後は、たてつづきにヒット作を世に送り出しました。

また、当時、イギリスの影響を受けたフランス・ロマン派の作家たちは続々とロマン派作品を発表しており、その影響もあってか、歴史小説に興味を持ったデュマは歴史学者オーギュスト・マケと共に歴史小説に手を染めるようになり「三銃士」を皮切りに数々の歴史小説を書くようになりました。

人気作家として「モンテクリスト伯」「黒いチューリップ」257冊の小説と、25巻の劇作を残しましたが、贅沢な生活を続けたため、晩年には破産し。子のデュマ・フィス(小デュマ)に養われました。
「モンテクリスト伯」訳:山内義雄 岩波文庫1956.2.5

 主人公のダンテス青年。長い航海の末、帰国後、愛しのメルセデスと結婚の予定。が、しかし、ダンテス青年に妬みを持つ2人の人物に無実の罪を着せられ、婚約披露宴の席上で警官隊に連行、14年間の投獄生活を送る羽目に。
投獄中に隣室のファリス司祭からいっさいの教養と財宝の在処を教えられるも、脱獄を共に画策していた司祭が老死。その亡骸と自分をすり替え、脱獄に成功するダンテス。そこから、鬼のような復讐劇が始まる。直接手を下さずに緻密な計算のもと、じわじわと忍び寄って相手を追いつめる。メルセデスを分捕ったモルセールを自殺に。自分を投獄した裁判官の精神を破壊し発狂させる。しかし、「人を裁くのは神ではなく、人が人を裁く」というデュマの考えも最後の1人に復讐するときに考えが変わり最後の1人は生け捕って、いっさいの財産を破滅させるも命は助けてしまった。
いっさいが片づいた後、ダンテスにも新たな恋が芽生え、新しい人生のスタートを切る。
「黒いチューリップ」訳:宗左近 創元推理文庫1971.3.26

フランス国王ルイ14世はスペインから独立を勝ち取ったオランダに侵攻をかける。
そのオランダの片田舎でチューリップ職人をしているコルネリウス青年は、賞金がかけられている黒いチューリップの制作に成功する。しかしこの青年の隣人である同業者イザーク・ボクステルが嫉妬心から、コルネリウスを嘘の罪で告発し、コリネリウスは逮捕、投獄、断頭台の宣告を受ける羽目になるが、連行される際に、数個つくっておいた黒いチューリップの球根1つを持っていく。またコリネリウスは投獄されたのを機会にイザークはコリネリウスの家に入って球根を盗み、育て上げてしまった。そして、園芸協会に黒いチューリップの成功を打診、まさにイザークが賞金をもらおうとしたそのとき、コリネリウスが投獄されていた城の娘(ローザ)が必死になってコリネリウスを援助、彼の無実を証明。またチューリップの制作者もコリネリウスであることも証明。そのため、イザークは悶絶死し、コリネリウスとローザは結ばれる。
彼は激しい浪費癖から晩年「蕩児の帰還」と言われることもありました。デュマ亡き後、小デュマ(息子「椿姫」の著者)は父を罵る人々に向かって「私の父は大河です。あなたが小便をたらしこもうと、何しようと、だから平気です。」とすばらしい応酬をしています。
デュマとユゴー
同世代のユゴーに対してコンプレックスを持っていたようです。ユゴーがアカデミー・フランセーズに入ったことにとが刺激しデュマのアカデミー・フランセーズに入ろうと画策しますが失敗に終わります。デュマがナポレオン3世への親書の中でユゴーに対して語った言葉に「1830年より今日の1868年にいたるまでフランス文壇のトップをいく3大人物、それはヴィクトル・ユゴーとラマルチーヌと、および小生であります。」と豪語しているとおり、ユゴーを認めると同時に相当のライバル意識も窺わせています。そのようにライバル視されていたユゴーは弔辞の中で「今世紀随一の人気作家はアレクサンドル・デュマである。まことに余人の追従を許さぬものがある。デュマの成功は成功以上のものがある。まさしく、勝利者である。ファンファーレの響きである。・・・まことに、アレクサンドル・デュマは心情と精神において気高い人物であった。すなわち、デュマこそ1個の偉大にして美しき魂であったのである。」と絶賛のエールを送っていることからも、両者の間には偉大なもの同士がわかる共感があったと思えます。

7月


24日
谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)

大正昭和期の小説家

東京の日本橋蛎殻町に生まれました。乳母の付添なしでは小学校への通学も嫌がる臆病者で、欠席が多く一年生で落第してしまいます。しかし、翌年の教師とは相性がよく、たちまち首席となっています。

しかし、父倉五郎の事業の失敗のため、家は零落し、そのため中学進学すら危ぶまれましたが、本人の熱意や、先生の説得もあり、ようやく伯父の援助で進学することができました。府立第一中学へ進学した彼は、飛び級もしたほど成績優秀だったのですが、家計の苦しさから住み込みの家庭教師をしながらの苦学の日々を送ったのでした。

第一高等学校へ進学した頃から、作家志望の気持ちを高め、東京大学国文科に進みましたが、国文科を「授業を怠けるのに都合がいい」という理由で選んだことからも。大学にはあまり通わず両親の家にも寄りつかず、同人雑誌を発刊したり、放浪、無頼の生活を続けていました。

その後、授業料未納で大学を中途退学した彼は、「誕生」「刺青」など次々と作品を発表したのですが、当時自然主義文学全盛の文壇の中で、全く問題にされず、煩悶し神経衰弱に陥ってしまいました。

しかし明治44年「三田文学」11月号で、永井荷風が彼の作品をとりあげて激賞したことがきっかけで彼は文壇に華々しくデビューすることとなりました。

「少年」「悪魔」「異端者の悲しみ」「痴人の愛」などによって、名声をあげ、官能の世界を描き出して耽美派と言われ、悪魔主義の文学とも呼ばれましたが、のち古典的な作風に変わり「春琴抄」「芦刈」「吉野葛」などの名作を書いています。

昭和14年から「源氏物語」の現代語訳にとりかかり、7年かかって完成し「谷崎源治」といわれました。また、第2次世界大戦中に書き始めた「細雪」は戦後に完成しました。

昭和24年には文化勲章をうけ、その後も、次々と老年と性、死とエロス、を正面から見すえた作品を発表、昭和31年の「鍵」は、その大胆な性描写が、芸術か猥褻かをめぐってセンセーションを巻き起こしました。

昭和40年7月30日、腎不全から心不全を併発し湯河原町の湘碧山房で亡くなりました。79歳でした。
「痴人の愛」のモデルは・・・
1915年に彼は、なじみの芸者、初子の妹の石川千代と結婚し、翌年には娘、鮎子が生れたのですが、千代は鉄火肌の初子と違って、家庭的な女性だったので、愛情が冷めてしまいました。2年後、母が亡くなると、父の世話をさせるという口実で千代と娘を実家に預け、自分はなんと千代の妹で15歳のせい子と同棲生活をはじめるのでした。

この頃、谷崎は大正活映という映画会社に関係しており、「アマチュア倶楽部」「雛祭りの夜」などにせい子を出演させた。彼女は葉山三千子の芸名で大正活映の看板女優になっていきました。彼女は「痴人の愛」のナオミのモデルとも言われています。
大正8年に彼の親友となっていた佐藤春夫が、彼にしいたげられている千代夫人に同情し、やがて、それが愛情に変わる。彼は千代を春夫に譲ろうと約束するが、途中で翻意したため、2人は絶交することになります。その後、佐藤春夫が離婚したのを機に、彼は春夫に千代を譲り、前代未聞の三名連名の挨拶状を友人知己に送ったのでした。これが文学史上有名な「夫人譲渡事件」です。
陰翳礼讃
谷崎潤一郎が自宅を建てる時に「陰翳礼讃」をよく読みこんで設計した建築家のプランを「これではだめだ。小説を書くには海から光が入る明るい部屋でないといけない」と、やり直しを命じたということです。松子夫人は「陰翳礼讃は、あくまで、あの人の夢だったんですよ」と笑っておられたそうです。
春琴抄

大阪の薬種問屋の娘・春琴と、彼女に献身的につくす奉公人・佐助の物語。盲目の春琴は琴の名手であり、佐助とは恋人の関係でもありました。ある放蕩息子の求愛を拒んでいた春琴は、何者かに熱湯をかけられ、美しい顔にやけどが残る。佐助は春琴の傷心を思い、自分の目を針で突き、自ら盲目となるのでした。


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