7月


23日
二宮尊徳 (にのみやそんとく) (二宮金次郎)(1787〜1856)江戸後期の農政家

相模国栢山(かやま)村(神奈川県小田原市)の農民の子として生まれました。はやくに父母と死別したため伯父にあずけられましたが、農作業を手つだいながら独学で読み書き・算術をおぼえました。夜なべ仕事や荒れ地に菜種を植えることで、少しずつ財をためて田畑をもち、20歳のときに生家を再興します。その後、自分の田畑を小作地として人に貸し、自分は雇用人となって効率よくお金をためていきました。

その後、奉公先で才覚がみとめられ、1818年に小田原藩の家老服部家の財政立て直しをまかされると、きびしい倹約と小田原藩からの借用金運用によってこれを成功させました。

彼の力を知った、小田原を治めていた大名、大久保忠真(ただざね)は、親類の宇津家の領地である桜町領の立て直しを、彼に頼みました。36歳の金次郎は、妻と、長男弥太郎を連れて、生家をゆずり、田畑を売って神奈川県から、遥々、栃木県まで引っ越して荒廃した農村の復興にあたりました。

尊徳は、農民の生産力に応じた消費を分度(ぶんど)としてさだめ、生活の勤倹と最新の農業技術を指導し、分度によって生じた富は推譲(すいじょう)と称して村に還元することをおしえました。これら一連の施策は報徳仕法とよばれ、天保の飢饉をのりきって桜町領の再興をなしとげ、1837年仕法を終了しました。


1842年に御普請役格で幕府にとりたてられ貧しい農民であった彼は、とうとう幕府の役人となりました。幕府は、さっそく日光御神領90ヵ村の復興を命じ、彼は、3年間かかって、日光御神領村々荒地起返仕法ひな形¢S84巻をまとめました。体調を崩していた金次郎ですが、各地を歩き、御神領90ヵ村の復興に余生のすべてをかけたのです。1856年10月20日、今市宿の役所で、70年の人生に幕が下ろされました。
二宮尊徳は身長六尺一寸(183センチ)、体重24貫(90キロ)、いかつい顔、まゆ太く胸厚く、見るからにエネルギッシュな風貌の持ち主でした。

世間では彼のイメージは「やりたいことも我慢して、勤勉実直、質素倹約」というものが多いが、尊徳は、禁欲主義を否定した人でした。だれからも教えられず、大自然から実地につかみとった彼の思想は、人間の欲を認め、まわりと調和させながら、心も金も、同時に、豊かにする「実学」でした。

その実践思想は、明治になって、渋沢栄一、安田善次郎、豊田佐吉はじめ代表的な事業家に多大な影響を与えましたし、戦後も、松下幸之助や土光敏夫らの多くの名経営者が、二宮尊徳を再評価し、その事業経営に大きく活かしたといわれています
近きを謀る者は、春植えて秋実る物をも、猶(なお)遠しとして植えず、只(ただ)眼前の利に迷うて、蒔(ま)かずして取り、植えずして刈り取ることのみに眼をつく、故(ゆえ)に貧窮す。 『二宮翁夜話』
「長い眼で将来を計画するものは富み、目先で動くものは貧窮する。将来を想う人は、100年後のために松杉の苗を植える。まして春に種を植えて、秋の収穫を得るのは当然のことである。こうして確実な富を得ることができるのである。

それに比べて、目先のことばかりにとらわれている人は、春に植えて秋に実るのを待つこともできず、ただ眼前の利に迷って、苗を植えることもしないで刈り取ることばかりに眼を向ける。だから貧窮するのである」。
門人たちは、幕末〜明治期に各地で結社方式の報徳社運動を展開し。運動は明治政府の農業政策とむすびついて全国に普及、1924年(大正13)には大日本報徳社が結成されました。1891年(明治24)幸田露伴「二宮尊徳翁」によって、薪(まき)をかついで読書にはげむ少年二宮金次郎像が提示され、これが国定教科書に採用されたことで修身(道徳)の教材としてひろく知られるようになり、全国の小学校の校庭に金次郎の銅像がたてられました。

7月


23日
幸田露伴(こうだろはん)

(1867〜1947)

明治時代の作家

学者で幕臣の幸田成延(しげのぶ)の子として東京で生まれました。小さい時の名は鉄四郎といい、本名は成行(しげゆき)といいます。

彼は、幼い時は病気がちでしたが、母から行儀作法、料理、掃除と家事全般を厳しく仕こまれたそうです。中学校に進んでからは漢学塾で勉強し読書に耽っていました。

16歳の時電信修技学校に入り、卒業して電信技手として北海道で勤めましたが、坪内逍遥の「小説神髄」、二葉亭四迷の「浮雲」の評判を知り、矢も盾もたまらず、明治20年に東京に帰り、明治22年雑誌「都の花」に「露団団(ろだんだん)」を発表して文壇に認められました。

つづいて「風流仏」「五重塔」「一口剣」の名作を発表し、写実の尾崎紅葉とならんで、理想主義の露伴として、明治文学史上に「紅露時代」をつくりました。

誇張した表現もありましたが、意気の激しさが作品をつらぬき、それが作品の魅力となっています。

明治26年に発表した「天うつ浪」を最後に創作の筆を絶ち、評論、修道論、史伝、翻訳、編纂に仕事の重点を移しました。昭和12年には、第一回文化勲章を受章しています。

その後、第2次世界大戦のさなか、空襲が激しさをくわえる中、信州に疎開。市川市で亡くなりました。81歳でした。

時の片山内閣は国葬を決めたのですが、遺族の固辞で質素な葬儀となったということです。
五重塔
のっそり十兵衛という無名の大工が自分の腕で不朽の建築物を残したい一念から義理も人情も忘れて親方と争ってまで仕事を引き受け、苦心の末、ついに見事に、台風に堪えて微動だにせぬ五重塔を建立するお話です。

この作品は、谷中五重塔の江戸期における再建の由来を事実に即して書いたものではなく、あくまで彼が創作した理想の世界の作品で、彼の代表作となっています。
「露伴」の由来
彼が北海道から、東京へと向かう途中、野宿して作った句「里遠くいざ露とねん草枕」
から名づけたといわれています。

作家の幸田文は彼の娘に当たります。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に