7月


21日
ア−ネスト・ミラ−・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)(1898〜1961)アメリカ 小説家

アメリカ合州国イリノイ州シカゴ市の現在は国際空港の近くになる住宅地オ−ク・パ−ク(当時はシカゴ市とは別個の行政都市)で、医師であった父クラレンス・エドモンド・ヘミングウェイと母グレイス・ホ−ル・ヘミングウェイの第二子、姉一人、弟一人、妹三人の六人兄弟の長男としてとしてして誕生しました。

父クラレンスは禁酒禁煙で勤勉という保守的なプロテスタントでしたが一方では、魚釣りや狩猟を好みました。母グレイスは音楽と絵画制作にいそしみ、声楽家として生徒に教えるほどでした。

幼い時から、北ミシガンのワルーン湖畔の別荘で過ごし、父から釣りや猟の手ほどきをうけていました。

1917年「カンザス・シティ・スター」紙の見習い記者になり、翌年北イタリアのフォッサルタの前線で救急車要員として参戦、迫撃砲弾の破片をうけて重傷。ミラノの赤十字病院で療養しています。

戦後カナダのトロントで『トロント・スター』紙のフリー記者をするかたわら創作を始め,1921年パリにおもむき、G.スタイン,パウンドらの知遇を得ました。その後、戦後の享楽的な青春群像を描いた「日はまた昇る」により、「失われた世代」の代表的作家と目されました。

「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」「老人と海」(ピュリッツァー賞) などの小説のほか,ハードボイルドな文体を駆使した短編の名手としても知られ、多くの作品が映画化されています。1954年10月ノーベル文学賞を受賞しました。

1960年、60歳のとき健康悪化のため入院。糖尿病と高血圧の問題もあったが治療の中心はノイロ−ゼ治療でした。翌年1月に退院後、未完成の「移動祝祭日」を書き進めましたが4月末に再度入院。6月に退院がゆるされアイダホ州ケチャムの自宅に帰りましたが、玄関応接間で死亡。猟銃の手入れ中の暴発による頭部損傷の事故死と発表されているが、父親と場合と同じく、銃による自殺と認識している人は多いといわれています。
1954年、1月23日ヘミングウェイはサファリを終えて、ウガンダのマーチソンの滝へむかいましたが飛行機が電線に接触し墜落してしまいます。乗客は全員無事だったにも関わらず「ヘミングウェイ死去」という誤報が世界中に広がりました。その翌日、別の飛行機に乗ったところ離陸時に炎上。視力、聴力障害、内臓損傷などの重傷をおってしまいました。
しかし、この年の10月に彼はノーベル文学賞を受賞したのです
1928年12月6日に父親クラレンスが糖尿病と借金を苦にピストル自殺する。自殺に使った銃はクラレンスの父(即ちヘミングウェイの祖父)の遺品でした。
ヘミングウェイは父のこの行為は清教徒グル−プの一員として1634年に移民してきた先祖への冒涜と考え自己中心的だとも語る一方、父の行為もまた両親に反抗してきた自分自身の鏡像と重なり宿命的なものを感じました。また父をそこまで追い込み、自殺に使った銃を送ってきた母親グレ−スを憎むようになりました。しかし結局ヘミングウェイ自身も父の死をなぞる形で死ぬことになるのでした。
2001.10.4

彼の息子グレゴリー・ヘミングウェーがフロリダ州マイアミの拘置所で亡くなりました。69歳でした。拘置所が4日発表した。公然わいせつなどの疑いで9月末に逮捕され、女子房内で病死したということです。

グレゴリー・ヘミングウェーは2番目の妻の子として、1931年にカンザスシティーで生まれました。医師でしたが、アルコール中毒に苦しみ、放浪を繰り返し、父親への憎しみをあからさまに語っていたそうです。性転換手術をして、女性の名である「グロリア」を名乗り、女性として生活をしていましたが。逮捕されたときは、裸で通りを歩いていたということです。

彼は父子の関係を問われると「愛情あふれ、威圧的で、善意のつもりの父親のもとでは子どもがダメになる」と語ったということです。
日本語の表記なのでどちらでも良いといえばいいのでしょうが、ウェイとウェーどちらが正しい読みなのでしょうか?


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