7月


20日
上杉治憲(うえすぎはるのり)(1751〜1822)  

江戸時代中期の米沢藩主。号は鷹山。日向高鍋藩主秋月種美の次男で、上杉重定の養子となり明和4 (1767) 年に重定の長女幸姫と結婚しました。

細井平洲などに師事して知識をたくわえ、当時財政的には破産状態にあった米沢藩の改革にあたり(義父重定は一時藩返上を考えたほどでした。)質素倹約を自ら手本を示すことによって浸透させていきました。また、彼の師、細井平洲をまねいて藩の学問所興譲館を設立しました。

一方で彼は竹俣当綱(たけまたまさつな)、莅戸善政(のぞきよしまさ)ら能力のあるものを起用し、財政再建を目指しました。新産業の開発を自ら先頭に立って奨励、漆、桑、楮の各100万本植立を企画。紅花、藍の栽培を行い越後から職人を呼び米沢、長井に工場を設け家中の女子に学ばせました。このようにして米沢織、米沢鯉、ウコギ、笹野一刀彫などの特産品を生み出し、農民の疲弊を救ってゆきました。さらに人口増加に努めたので米沢藩の財政はようやく再建されました。


後に35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、次の3カ条を贈っています。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代々の家訓となっています。

・ 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
・ 人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
・ 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候

彼の行った政策により、彼が没した翌年には藩を継いだ時の借入金約11万両をほぼ完済しただけでなく、軍用金5千両や不時のときの備蓄を持つにいたっていたということです。
昭和36年(1961年)に、アメリカ合衆国の第35代大統領に就任したJ・Fケネディは、日本人記者団から、「日本で最も尊敬する人は誰か。」という質問に、「それは上杉鷹山である。」と即座に答えました。それは、鷹山が無比の誠実さと謙虚さ、そして人々に対する慈愛の心を持っていたからでしょう。
「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」
上杉治憲(鷹山)の歌の一首です。
「何事もやってやれない事はない。できないのは自分がやっていないからだ」ということでしょうか。
彼は米沢の春日神社に、学問・武芸に励むことや、行動や賞罰に不正の無いこと等を誓った誓詞を奉納しました。 さらに、藩を立て直すにためには最初に大倹約が必要と決意し、米沢の鎮守(ちんじゅ)である白子神社に納めたのが、写真の倹約誓詞です。
 「連年(れんねん)国家衰微(すいび)し、民人相泥(たみひとあいなず)み(困り)候(そうろう)。因(よ)って大倹相行い中興仕(つかまつ)り度(たく)祈願仕候。決断もし相怠(おこた)るにおいては忽(たちま)ち神罰(しんばつ)を蒙(こうむ)るべきもの也」と、9月6日、鷹山が自ら筆をとって書いたものです。
米沢鯉は、亨和2年(1802年)に十代藩主上杉鷹山公が、動物性タンパク質の乏しい山国米沢に、相馬から稚鯉を取り寄せ飼育したのが始まりです。鷹山公の教えによって、庭に池を掘って鯉を飼い、やがて晴れの日の行事、来客の時は決まって鯉のうま煮が一番のご馳走として、膳をにぎわすようになりました。
イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、米沢について、次のような印象記を残しています。

 南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、抑子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。・・・・・・美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。

イザベラ・バードは、この土地がわずか100年前には、住民が困窮のあまり夜逃げをするような所であったことを知っていたでしょうか。この文章こそが、鷹山の改革のすばらしさの証明になるのではないでしょうか。
鷹山は90歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料理と金品を振る舞いました。子や孫が付き添って世話をすることで、自然に老人を敬う気風が育っていきました。父重定の古希(70歳)の祝いには、領内の70歳以上の者738名に酒樽を与えた。31年後、鷹山自身の古希では、その数が4560人に増えていたといいます。
天明の大飢饉

天明2(1782)年、長雨が春から始まって、冷夏となり、翌3年も同じような天候が続き。米作は平年の2割程度に落ち込みました。いわゆる天明の大飢饉のはじまりです。

しかし米沢藩では鷹山が陣頭指揮をとり、すばやく藩政府は対策に乗り出しています。
 
・ 藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
・ 酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。
・ 比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ

鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とし、それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けました。全国300藩で、領民の救援ができる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけでした。

近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては、30万人もの餓死者、病死者が出たとされていましたが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓死は一人も出なかったと伝えられています。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じているのです。

また、江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もいなかった、とつたえられています。


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