7月


19日
山川登美子

(1879〜1909)

歌人

福井県遠敷郡竹原村(現小浜市千種1丁目)に、父貞蔵、母ゑいの4女(第6子)として生まれました。戸籍名は「とみ」。父は銀行頭取という由緒正しい家系でした。

明治28年、17歳で梅花女学校の本科に編入学し、2年後の明治30年、第13回卒業生として本科邦語科を卒業しました。その後、再び梅花女学校の研究生として大阪に嫁いでいた姉の家から通う事になりました。

その頃に投稿した歌が「明星」第二号(明治三十三年五月)に載り、次号より新詩社の社友として歌を発表するようになります。(歌を送り、鉄幹が添削して「明星」に掲載するというのが新詩社のシステムでした。)

そして鉄幹によって、直接添削された自分の歌が送り返されてくるうちに、登美子は鉄幹に恋心を抱くようになるのですが、歌の、そして恋のライバルとなる与謝野晶子(当時 鳳晶子)はすでに社友として歌を発表していました。

明治三十三年八月に、彼女はついに住の江の歌会で鉄幹と対面を果たします。絆を深めた登美子は「明星」に自分の道を見出すのでした。しかし、ここに悲劇が待ち受けていました。父が本家の山川駐七郎との結婚を決めてしまったのです。

親に逆らう術を知らない登美子は早くも「明星」、そして鉄幹と別れる事を決意し、彼女は山川のところへ嫁いでいきました。しかし、結婚してわずか2年で夫は結核で亡くなってしまいます。

夫が亡くなって2年後の明治37年、彼女は梅花女学校の第4代校長成瀬仁蔵を慕って、上京し、その創設した日本女子大学に入学、増田雅子と親しくなり、明治38年、与謝野晶子・増田雅子との合著詩歌集「恋衣」を刊行します。

しかし、この年より亡き夫、駐七郎から感染した結核に病み、苦痛の日々を送る事になり、とうとう、明治39年には病状悪化のため日本女子大を中退し。翌年最愛の父が亡くなり、故郷に帰った彼女はそのまま、病臥生活に入り、孤独と絶望の中で1200首余りの歌を残して明治四十二年四月十五日、この世を去りました。満二十九歳九ヶ月でした。

辞世の歌
 父君に召されていなむとこしへの春あたゝかき蓬莱(ほうらい)のしま
「白百合の君」と称せられた、山川登美子ですが、その人生は儚く終わってしまいました、折口信夫(釈迢空)は、次のように登美子を称えています。
「晶子・登美子の二人は、ほとんど、時を同じうして歌壇にあらわれましたが、晶子は鉄幹と結婚していよいよ、歌になじむ生活をして行ったのに反し、結婚生活に幸福でなかった登美子は、若いうちに死んでしまった。この運命がもし入れかわっていれば、山
川のほうがすぐれた歌人としての業績をのこしたかも知れない、と言うほどの才の見られる人なのです。」

「女流の歌を閉塞したもの」ー『短歌研究』昭和26・1

7月


19日
エドガー・ドガ

「デッサンは形ではない。デッサンとは物の形の見方である」

(1834〜1917)

フランスの画家 彫刻家

パリの裕福な銀行家の息子として生まれました。最初は法律を学びましたが、その後、国立美術学校に入り伝統的な絵画の勉強をしています。

そしてイタリアに留学してルネッサンスの大家の作品群に触れ、古典派の影響を受けましたが、1865年ごろからゾラの自然主義文学のグループを知り、次第に印象派へとスタンスを変えていきました。


正確なデッサンと鋭い線、鮮やかな色彩で知られ、その代表作「踊り子」は、人物の動きの瞬間的なポーズを巧みに捉えたものとして有名です。また、そのポーズや色彩には日本の版画家葛飾北斎らの影響を受けたといわれています。

しかし、彼は36歳のときに普仏戦争に志願して従軍したことが原因で目を痛め、60歳頃からほとんど見えなってしまい、晩年は、手さぐりで小彫刻を作っていたそうです。

彼は私生活でも鋭く激しい性格のため妻もなく、友人も、門人も無いという孤独のうちに寂しく亡くなったといわれています


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