7月


17日
竹山道雄(1903〜1984)ドイツ文学者、評論家、小説家

大阪で生まれましたが、父の銀行勤務のため、静岡県浜松、朝鮮京城など、各地を点々とすることになります。20歳で東京帝国大学文学部独文科へ入学し、23歳で卒業してから、第一高等学校(現在の東大教養学部)の講師となり、翌年には講師のまま文部省留学生として、ヨーロッパへ留学しベルリンとパリで学んだ後3年後の1930年(昭和5年)に帰国しそのまま、一高教授となりました。

その後、1935年(昭和10年)に新潮社の「日本小国民文庫」の編集、執筆に参加。1939年(昭和14年)にはシュヴァイツァーの自叙伝「我が生活と思想より」を翻訳し日本にシュバイツァーを紹介、続いて1942年(昭和17年)に「光と愛の天使」(シュバイツァー伝)を新潮社から」刊行しています。また、その間の、1940年、昭和15年には、日独伊三国同盟が結ばれようとする直前、「ドイツ、新しき中世?」を書いて全体主義国家の非を衝いています。

1947年(昭和22年)に「本格小説の生まれぬ訳」を発表した後、3月から児童雑誌「赤とんぼ」に「ビルマの竪琴」(第一部)の連載を開始します。この「ビルマの竪琴」は翌年の3月まで連載され、その後、9月から第2部、第3部が連載されて1948年の2月に完結しています、その間、学制改革によって東京大学教養学部教授となっています。

翌年、彼は「ビルマの竪琴」によって、芸術選奨文部大臣賞を受章しました。

1951年(昭和26年)48歳で東京大学教養学部教授を退職、その後は、同学部、学習院大学、上智大学などの講師となりました。その後1984年に亡くなるまで、「ヨーロッパの旅」「剣と十字架」などの文明批評。「失われた青春」など人道主義的立場で人生を語った評論や、ほかに「京都の一級品」などの多くの作品を残しました。
ビルマ戦線に「うたう部隊」がいた。音楽学校出の隊長が、合唱することで兵士の和をはかったのだ。昭和二十年夏、本部との連絡も絶たれたこの部隊は英軍に包囲されたが「埴生(はにゆう)の宿」をうたう。すると思いもかけぬことが起った。日本兵が日本の歌と思ってうたったこの小学唱歌は実は英国の「ホーム・スイート・ホーム」の翻案である。望郷の念に打たれたイギリス軍兵士もその歌をうたい出し、異様な感動のうちに両軍は和解する。
 こうして始まる『ビルマの竪琴』は筋を紹介するまでもないほど日本で広く読まれ、その後2回にわたり映画化もされています。
また、竹山自身は、後になって、「何も知らないで書いたのですから、まちがっている方が当然なくらいです。たとえば、坊さんの生活などはなにも分かりませんでした」と書いていますし。また、「ビルマから三人の新聞記者が来て、あのほんの英訳本を読んで、宗教関係にまちがったところがあるが、ビルマ人は、宗教についてはきわめて敏感だから、これをビルマに紹介するときにはこの点に気をつけるように、といわれました。あれをビルマ語に訳そうという計画があり、その許可を求めてこられましたから、よろこんで同意しましたが、はたして仕事はすすんでいますかどうですか」とも書いていいます。


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