7月


15日
国木田独歩(本名 哲夫)(1871〜1908)作家、詩人

明治4年(1871年)千葉県に生まれました。東京専門学校(現、早稲田大学)に入学し、キリスト教の洗礼を受け熱心なキリスト教信者となりました。

学校を中途退学し、雑誌の編集や、教師を経て、日清戦争が起こると、明治27年国民新聞記者として従軍し、軍艦千代田に乗り込み、送り続けた従軍記「愛弟通信」が新聞に連載されて好評を得ました。

帰国して、佐々城信子と恋愛結婚しますが、半年で離婚し、彼がなくなった後発表された手記「欺かざるの記」がその間の事情を伝えることとなります。

その後、新聞や雑誌の編集にたずさわりながら、明治30年共著詩集「抒情詩」を出版し、また「源叔父」「忘れえぬ人々」などを発表して浪漫的抒情文学に新風を吹き込み、「春の鳥」で浪漫主義の極致を示しました。晩年は「窮死」「竹の木戸」などの作品で自然主義作家として評価されましたが、しかし貧窮の生活が続いて健康を害し、島崎藤村と並ぶ新時代の文学のにない手と目されながら結核に倒れてしまい。明治41年(1908年)肺結核のため、36歳で亡くなりました。

多くの作品が死後続々出版されて、自然主義の先駆者としての不動の声価を定めましたた。

7月


15日
レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)

(1606〜1669)

オランダの画家

製粉業者の子としてオランダのレイデンに生まれました。成長して、ライデンのラテン語学校を経てライデン大学に学びましたが、1621年頃から親類のスワーネンブルフに絵を学び、1624年にはアムステルダムのロマニスト、ラストマンに学び、翌年故郷で画家として独立しました。

その後アムステルダムに出て、外科医組合のために「トゥルプ博士の解剖学講義」を描くなど、上流市民層の肖像画家として活躍していきました。

そして、25歳のときに知り合った画家兼画商でヘンドリック・アイレンブルフの又従姉妹のサスキア(レーウワルデン市長の娘)と出会い28歳のとき結婚しました。この時期、彼は絵画の収入と妻の財産により最高の贅沢を満喫しましたが、その幸せも長く続きませんでした。彼女は病弱で36歳のときに亡くなってしまったのです。

しかし、彼はその悲しみを乗り越えて、かの有名な「夜警」を完成させました。この絵は集団肖像画の注文を亡くなった妻が生前にお金をもらって受けたものでした。ところが、この絵には、頼まれもしなかった少女がいたり、隊員一人一人が同じ大きさで肖像画を描かれていなかったことなどにより、債務不履行と詐欺罪で裁判沙汰になってしまったのです。これを境に彼の名声は失墜していきました。

この後世に名作と呼ばれ世界中で愛されて続けてきた作品のために、彼の人生における転落が始まるとは皮肉な話です。

その後の、彼の人生は悲惨でした。「夜警」の不評で急速に注文も減り、愛人関係の破綻の影響による破産により家や財産。デッサンやエッチングの原版までが競売に付されてしまいます。晩年は世に受け入れられず、不遇と失意のうちにその生涯を終え、身元不明の老人として、教会の共同墓地に埋葬されたのです。

彼が残した絵画は生前は評価されませんでしたが、時を超えて世界中で愛されつづけ、現在でも高い評価を受け現在に残っている作品ばかりです。
「夜警」には、「フランク・バニング・コック隊長の市民隊」という原題があり、現在までに修復でニスを塗り重ねられ黒い部分が余計に暗くなってしまい、夜の雰囲気となってしまいました。それで「夜警」というタイトルで親しまれてきたということです。
臨終の際、彼が残したものは、着ている衣服1枚、ハンカチ8枚頭巾10個、聖書1冊、そして若干の絵道具のみだったということです。


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