7月


14日
緒方 洪庵(おがたこうあん)(1810〜1863)蘭学者、医学者、教育家

備中国(岡山県)足守に生まれました。父は足守藩主木下侯に仕える藩士であり、洪庵は3男1女の末子でした。文政8年に父が大阪蔵屋敷留守居役になったとき、父に従って大阪へ出、翌年から、大阪の蘭方医中天游の門に入りました。次いで江戸に出て坪井信道に学び、さらに長崎に行って蘭学を学んだ後、大坂に帰って開業しました。そして、1838年、大坂の瓦町に適塾(適々斎塾)を開いて後進の教育にあたったのです。

この年の7月に、彼は天游門下の先輩である億川百記の娘八重と結婚しました。このとき洪庵28歳、八重は16歳でした。八重はやさしくて物静かな女性であり、終生、彼を助け、塾生たちからも母のように慕われたといわれています。

この時期は、大坂で大塩の乱が起こり、市街の主要部が灰燼に帰し、徳川封建社会がくずれてゆく転換期でした。その中で、彼の名声は高く、開業2年目には早くも浪花医者番付で東の前頭4枚目になり、ついで最高位の大関になっていたそうです。塾の評判もよく、多くの人が集まり、手狭となったために、5年後の1843年に過書町へ移りました。この2階建てのただの民家は今では、史跡・重要文化財となっています。

適塾には、オランダ語を介して西洋の事情や兵学を知ろうとする者が全国から集り、門下生は 千人をこえ、そのなかから橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介、箕作秋坪、長与専斎など、その後の日本を支えた人材が多く輩出しました。

彼は、適塾を通じて多くの人材を養成しただけでなく、医師・医学者としても活躍しました。当時の人々は牛からとれる牛痘(ワクチン)を気味悪がって、除痘館に足を向けなかったのですが、彼は牛痘の効果をわかりやすく解いた絵入りのビラをつくり、その重要性を人々に訴え、その重要性が認められるまで、無料で予防接種をしました。

さらに、1858年にコレラが大流行したときにも、当時長崎へきていたオランダの医師の本のコレラに関係した部分を訳し、これに自分の意見を加えたものを「虎狼痢治準」と題して出版し、医師たちに配布しています。

彼の名声は高まり、幕府も彼を江戸によぶことにしました。初めは辞退していた彼も断りきれなくなり、1862年に江戸へ出ます。幕府は彼を、将軍の侍医である奥医師に任じ、幕府の西洋医学所の頭取をも兼ねさせまし。また、法印に次ぐ医師の位である法眼の位を与えたのですが、さまざまな無理がたたって、それからわずか10ヶ月後、彼は医学所頭取役宅で大喀血して倒れ、急死してしまいました。53歳でした。
塾は、基本的には塾生による自治と自習にまかされていた。入門した塾生は、まずオランダ語を学んだ。学力に応じておよそ10クラス(1クラス10〜15人)に分けられ、毎月6回の会読テストの合計点で3か月連続上席を占めると、上のクラスに進むことができた。最上級の塾生だけが、洪庵の直接主宰する会読に出席できた。会読の範囲はあらかじめ決められていたけれども、その予習のさいに他人に質問することはかたく禁じられていた。このため、塾生は独力で勉強しなければならなかった。
 塾生たちが頼りとする蘭和辞書は『ズーフ・ハルマ』1セット2冊だけであり、それは「ズーフ部屋」とよばれる部屋の机の上に置かれていた。このために、会読の日が近づくと、ズーフのまわりは人の山となった。そのあまりの繁盛ぶりに塾生たちは、「この辞書をひとり占めして原書を読むことができたら、天下の大愉快だろうな」と言い合ったという。
適塾には、一時に約100人の塾生がいた。そのうちの半ばは塾外から通い、残る半ばの約50人が塾に寝泊まりしていた。塾の2階が寄宿舎で、28畳だった。隣の10畳は会読に使われ、夜は寝室になった。それにしても合計40畳足らずで、寝泊まりする学生1人あたり1畳にもならない。そこに机や寝具を置いて寝起きしていたのである。寝る場所の選択は成績順になされ、月に1回ずつ席替えがなされた。風通しと採光がよく、寝ていても人にふんづけられないよい席は、成績のよい連中がとった。「いい場所で寝たいなら勉強しろ」というわけである。
諭吉は安政2年(1855)から5年までの3年間、適塾で学んだ。2年目の安政3年に腸チフスを患い、その間、兄のいた中津藩の大阪蔵屋敷で療養した。洪庵は、わざわざ蔵屋敷へやってきて面倒をみてくれた。おかげで諭吉は全快した。このときの洪庵の心のこもった親切を、諭吉は終生忘れなかった。


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