7月


13日
森有礼 (もりありのり)(1847〜1889)外交官、教育家、子爵

薩摩(鹿児島県)に生まれました。林子平の「海国兵談」を読み、海外事情を知る必要を悟り、洋学、漢学を学び武術を修め、薩摩の藩校に学びました、そして幕末、薩摩藩は、国禁を犯して、英国に彼を含む19人の留学生を送り出しました。

英米に留学した彼は、新政府の外交官として精力的に欧米の教育制度の研究に取り組みます。その後、アメリカに駐在し「日本に於ての宗教の自由」などを著わしています。外務大丞、同少輔、清国公使などを経て、イギリス公使となり、外交官として活躍し。帰国してからも、明六社の創設を発起し、「明六雑誌」を発刊し、開化論、泰西思想の普及に努めました。

彼は、条約改正交渉の経験を通じ、列強と対等に渡り合うためには「国民」の創出、すなわち国家が主導で教育を行う学校制度を整備することが何よりも必要だと考えました。

当時の学校制度「学制」は、欧米の翻訳教科書の使用、高価な授業料、さらには教師の育成の遅れなども相まって、学校によって授業内容にバラつきが生じるなどの多くの問題を抱えていました。さらに、天皇の側近の教育係、元田永孚は、天皇の威徳で国民の統合を図る儒教主義教育を推進、「修身」を学校の中心科目に据えさせるなど、文教行政に大きな影響力を与えていたのです。

しかし1885年伊藤博文内閣で、初代文相となった彼は、義務教育による国民皆学、帝国大学を頂点にした能力主義による学校システムの構築、検定による教科書の質の向上、という独自の路線を打ち出していきました。また、修学旅行、運動会なども彼によって制定されたのです。

彼は、精神主義的な「修身」ではなく、実利的な知育体育を重んじる学校制度の充実によって、国民の統合を図ろうとしたのです。しかし、明治22年、大日本帝国憲法発布の当日、壮士西野文太郎に暗殺されてしまいます。

翌年、彼の死によって勢力を挽回した元田らは「教育勅語」を発布、以後森が築いた学校制度は皮肉にも戦前まで続く修身教育を支える装置として機能することになってしまいました。
初代文部大臣森有礼は、東京大学を東京帝国大学と改名、学校制度を整序し、そして東京帝国大学卒業生を官吏登用の際に於いて優遇する勅令を取り付けた。政府は、藩閥体制から学閥体制へと移行していき、やがて東京帝国大学の卒業生は官界のみならず、財界でも重用されるようになってきた。日本の学歴社会を生み出したのは、実は初代文部大臣森有礼である
彼は、かなりの天才肌だったそうで、発想も常人離れをしており、義務教育で国語として英語を教えようとしました。
森有礼の実兄は明治3年7月27日、上辺を飾り自らの名誉や利益のみを考える明治政府役人を諫めるため、時幣十ヵ条をかかげ集議院門前で抗議の切腹をしました。その心境に共鳴した西郷が、碑文を書きその行為を讃えました。


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