7月


12日
西 竹一 (バロン西)馬術選手 陸軍軍人 男爵(1902〜1945)

外務大臣でもあった男爵、西徳二郎の3男として生まれました。わずか10才で父親をなくし、麻布の土地一万坪などの莫大な財産を相続します。これが後々の派手な彼の私生活を支えていくことになります。

学習院初等科から府立第一中学校へ進学しましたが、2年次に突然、陸軍幼年学校へ行きたいと言い出し、彼は広島の陸軍幼年学校に進みました、彼は、そこで馬と出会うことになります。その後、陸軍予科士官学校に進み、卒業してから、習志野にある陸軍騎兵学校に長期学生として入学しました。そこで馬術に専念する環境が与えられ、オリンピックを目指すことになります。

そんな彼の元へイタリア留学中の今村安から一通の手紙が届きました。あまりに大きくて乗りこなせないために売りに出されている良い馬がいるとのことでした。それがウラヌスで、体高が1m81、アングロノルマンの中間種で血統証もない去勢馬でした。彼は早速ウラヌスを買い求め、調教をしながらヨーロッパの大会を転戦し、良い成績を残していきます。

そして昭和7年のロサンゼルス・オリンピック大会メーンスタジアムでは最終競技の馬術大障害が行われ、世界の競合が失敗をくりかえす中、最後に登場した彼とウラヌスは、見事な演技を披露し金メダルを獲得したのです。当時の日本は、満州事件以降、国際連盟を脱退するなど国際的な非難を浴び、世界中からの不信感を集めていたのですが、彼の華麗な馬術が、アメリカ国内の排日の嵐の中、さわやかな印象を与え、ゴールでは11万人の観衆が「バロン西、バロン西」の大声援を送ったといわれています。

彼は、男爵(バロン)の称号を持ち、英語を流暢に話し、人柄も明るく。ましてや、オリンピックの花形競技である優勝国賞典競技で優勝した。そんな彼は当時のアメリカ人が日本に抱いていた印象を払拭させる存在だったのです。

彼は4年後のベルリンオリンピックにもウラヌスとともに参加し、障害団体6位に貢献します。その後、騎兵学校の教官等の役職を経て、本来の職務である軍人としての第一線に復帰することになりました。西は陸軍にあって最後まで頭を丸刈りにしない伊達男で、米国通の国際人であったため、冷遇されていました。

昭和19年43歳のとき、本土の防衛線硫黄島を死守するため北満州から硫黄島に移され、翌20年2月16日、米大艦隊の島の地形が変わるほどの艦砲射撃の中、米軍から「バロン西、出て来て下さい、あなたをうしなうのは惜しい・・・」という投降勧告もありましたが、彼は愛馬ウラヌス号のたてがみを胸ポケットにしのばせたまま玉砕しました。

主人の死の1週間後に愛馬ウラヌスも病死したそうです。
西とウラヌスは第5障害までを無事に通過し、第6障害で水濠に後脚を落として減点となったものの第9障害まではなんとかクリアしました。いよいよ最大の難関の第十障害。ここでウラヌスは左にそれて止まってしまい、2度目の飛躍では無事通過、残りの障害は無難にまとめてゴール。減点8で優勝したのです。

彼は記者会見で「We won!(我々は勝った)」と答えました。これはウラヌスと共に勝った!という意味でしょう。日本馬術史上、国際大会での初優勝でした。そして残念ながらいまだに最後の優勝でもあります。

その後、西はアメリカで大人気をはくしています。連日のようにハリウッドの女優達から誘いの電話が入りました。他にもロサンゼルスの名誉市民に決まったり、サンタアニタ競馬場の起工式に参加して終身名誉会員に推されたり、パッカード社から高級車を贈られたりもしています。
士官学校を卒業すると西は騎兵第一連隊の少尉に任官されます。そこで与えられた福東号という名の馬で、石垣を飛んでみたり、車を飛び越したりしていました。1m50の石垣を飛んだ時は馬の前脚が石垣に引っかかり、馬もろとも頭から落下しました。しかし、手綱は放さず、すぐに再挑戦し見事に飛越しています。車を飛んだときの写真は新聞やイギリスの馬術雑誌にも掲載され人気をはくしました。
陸軍予科士官学校に進んでから彼は、中古の自動車を買い求めて麻布、赤坂界隈を猛スピードで走り回り、東京中の交番から「西を捕まえろ!」というお触れが出たりしています。しかしそこは御曹司。麻布警察署に職員宿舎を寄付したおかげでその管轄内では捕まらないようになったということです。

7月


12日
ジョサイア・ウェッジウッド

(1730〜1795)

イギリスの陶芸家 「英国陶工の父」「女王陛下の陶工」

彼は、代々作陶に携わってきた家に生まれました。9歳で陶芸家の父を亡くし、学校に通うことすらできなくなってしまった彼は、兄のもとで14歳から19歳まで陶芸を学びながら徒弟見習いとして働き、その後も、T.ウィールドンの製陶工場で働きました。

彼は熱心に陶芸に取り組み、めきめきと頭角を現し、1759年に独立。これがウエッジウッド社のスタートとなります。1762年、リバプールの金持 T.ベントリーの支援で製陶工場を造り、陶器製作と研究に従事しました。そして、1765年硬質陶器クリームウェアが完成。光を受けると美しく透明に輝くクリーム色は時の王妃シャルロッテに愛され、「クィーンズ・ウェア」と呼ぶことを許されます。

しかし、1768年彼を突然の不幸が襲います。なんと、子供のころ煩った天然痘で、右足膝下を切断しなくてはならなくなってしまったのです。しかし、彼は病気の療養のために滞在していたホテルで生涯の友であり,また共同経営者となるトーマス・ベントレーという人物に合うことができたのでした。

彼は、片足を切断するという突然の不幸にもめげず、陶芸の指揮を取り続け、そして、1774年には、ウエッジウッドの名を一層高めた「ジャスパーウェア」を完成させるのでした。「ジャスパーウェア」は、青や紫などの素地自体に色素を含む土台に、ギリシャ神話や花などのモチーフを張り付けて作られた、傑作でした。この手法で古代ローマの壺を再現した「ポートランドの壺」は屈指の名作とされています。

そして、ウェッジウッドの作品は、英国王室のみならずロシアの女帝エカテリーナ2世など、欧州各国の王侯貴族から注文が殺到し、ウェッジウッドの器は瞬く間に世界中に広がっていったのでした。
1812年、後を継いだ息子のジョサイア2世は、画期的な方法で「ファイン・ボーンチャイナ」を完成させます。牛骨灰、陶土を主原料につくられ、このうち成分の50%以上を占める骨灰が、特有の艶やかな地肌の白さと透明感、驚くほどの堅牢性をもたらして、ウエッジウッドの名を不動のものにしました。

ファイン ボーン チャイナをいつまでも美しく使うためには、以下のような注意が必要なのだそうです。


  洗浄は食器用洗剤をつけた、やわらかいスポンジ等でていねいに洗う。(たわしや磨き粉等の使用はさけてください。)
  洗浄の際の熱湯のご使用は、さける。
  保管する際は、器と器の間に、あて紙(布)等を使用し直接あたらないように注意する。

なかなかに、デリケートな食器のようです。まるで、日本の漆器のようですね。
ウェッジウッドの作品には、商品や年代によっても多少違いはあるそうですが、皿や壺などの裏に独自のマークとポーランドの壺の絵とロゴが必ず入っているそうです。
博物学者 C.ダーウィンは彼の孫にあたるそうです。


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