7月


11日
穂積陳重(ほづみ のぶしげ)(1883〜1926)法学者

宇和島藩士・穗積重樹の次男として生まれました。代々国学者の家系であったと言います。長兄の重顎は後に字和島藩主であった伊達侯爵家の家令となっています。

藩校であった明倫館に学んだ後、16歳で藩の具進生として上京し、大学南校(東京大学の前身)に学び、1876(明治9)年には文部省留学生としてイギリス、ドイツに渡り、法律学を学びました。

1881(明治14)に帰国、その翌年には27歳で東京大学教授・法学部長に就任しています。さらに33歳で、日本ではじめての法学博士となりました。彼は日本法学にイギリス法学、ドイツ法学を継受し、その後の日本法学に大きな影響を与えるとともに、東京大学に法理学の講座を初めて開きました。

1893法典調査会主査委員になり、富井政章、梅謙次郎とともに現行民法の起草にあたり「明治民法の生みの親」といわれ、貴族院議員、帝国学士院第1部長、文政審議会委員などの要職についています。
宇和島の先輩で大審院長の児島惟謙に大津事件の意見を求められたのに対し「外国でも敗戦国でない限り、自国の法律を曲げた例はない」と言って激励した
彼はミッドル・テンプル「法学院」での年一回の学力試験で最優秀の成績を収め、今で言う「奨学金」(当時のお金で550日本円当時では家が何軒も買えるほどの大金)を獲得して、在英の同胞たちを大喜びさせたようです。そのことは、当時の『東京日日新聞』(9月27日)や『朝野新聞』(10月25日)で日本でも大々的に報道されたそうです。


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