7月


7日
陸奥宗光(むつむねみつ)(1844〜1897)明治時代の政治家 外交官

和歌山藩士伊達藤二郎宗広の6男。幼名を伊達牛麿といい、多感な時代は伊達小二郎という名で過ごし、のちに自ら陸奥姓を名乗るようになりました。彼の父宗広は幕末、紀州藩の財政危機を救う程の大功績をあげながら、藩内の政争に巻き込まれ、伊達家は一家離散の憂き目をみることになります。

彼は藩士の子弟としての教育もうけられず、独学で漢学等の学問を身につけていきます。外人宣教師宅に住み込み、努力の結果、身につけた英語力は、後年英国人をもうならせるほどでした。

土佐の坂本龍馬の知遇を得、のちに龍馬がが組織した海援隊に参加しています。また明治維新の後には政府に参画しますが、薩長閥の専横に抗議、征韓問題で西郷隆盛や板垣退助と共に下野した後、土佐の立志社系の政府転覆運動に参加して5年間、投獄されるという経験も持っています。

明治16年(1883年)赦免により出獄し、3年余の外国留学の後外務省勤務となりました。その後駐米公使、山県内閣農商務大臣、衆議院議員、伊藤内閣外務大臣などを歴任し、日清戦争前後の困難な外交にあたりました。

彼は、ベンサムの立法論を全訳する程の語学力に秀で、欧州各国の教授と英語で憲法論を論じるほどの高い能力と、識見を持ち合わせていました。その手腕によって、イギリスとの不平等条約改訂・治外法権撤廃を成功させ、独立国日本としての立場を獲得し、その協調をもとに日清戦争を外交面から支援しました。

このとき遼東半島の割譲を巡り、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉を受けた苦心の外交折衝の経過は、その著「蹇蹇録(けんけんろく)」に記されています。

これが、いわゆる陸奥外交であり、彼は明治時代の代表的な外交官と言われました。

彼は、坂本龍馬の亀山社中に参加して、海援隊にも加わっています。龍馬にその才能、特に商才を高く評価されていました。彼は龍馬から「二本差しでなくても食って行けるのは俺と陸奥のみ」と言われるほどでした。彼は、龍馬暗殺のしらせを受けたとき、暗殺を指示したとみられる人たちの宿に斬り込んでいます。
豊島沖で日清両国の艦隊が衝突し、日清戦争が勃発しました。戦いは我が国の圧勝に終わり、下関条約が結ばれました。その第一条で、清国に朝鮮の独立を認めさせた我が国は、安全保障面で一歩前進したのですが、我が国が遼東半島を獲得したことを苦々しく思ったロシアが、独仏両国を誘って、その返還を求めてきたのです。いわゆる三国干渉です。
 戦争中、国民の間では、平壌の戦い、黄海海戦での大勝利のニュースに接して以来、「北京へいつ日本軍が進撃するか」が関心事になっていました。陸奥によれば、「妥当中庸の説を唱うれば、あたかも卑怯未練、毫も愛国心無き徒と目せられ」るありさまだったのです。国民の喜びに水を差す、理不尽な三国干渉に直面した政府当局者は頭を悩ませました。
 しかし、病身をおして善後策を検討した陸奥は、国民におもねることなく、国力を冷静に鑑み、まさしく「妥当中庸」を貫き、不当な三国干渉という「友誼に基づく忠告」に応え、他日を期したのでした。
われわれが今日見聞きしている日本外交とは、胸を張ってこれが一流と言えるものではなさそうです。しかしかつては、間違いなく日本外交が一流だった時代がありました。それが「陸奥宗光とその時代」であるといわれています。

7月


7日
マルク・シャガール

(1887〜1985)

ロシア出身のフランスの画家 版画家

帝政ロシアの地方都市ヴィデブスク(現ベルラーシ共和国)近郊のユダヤ人居住区でユダヤ人として生まれました。父ザハールと母フエイガには9人の子供がおり、彼は大家族の中で育ちました。

彼は1906年から2年間、サンクトペテルブルグの帝室美術奨励学校で、その翌年から2年間、レオン・バクストの美術学校で学びます。その後、彼の才能を見抜いたあるユダヤ人代議士の学資援助を得てパリへと出発しました。

彼は、パリでの生活で多くの刺激を受け、キュビスムの技法を取入れ、故郷の風物の追想や幻想を描いた作品で、エコール・ド・パリの画家として注目され、1914年にはベルリンで初めての個展を開くに至ります。そして、その足で故郷へ戻り、翌15年に婚約者のベラ・ローゼンフェルトと結婚。彼女は、それ以降のシャガールに多大な創作上のインスピレーションを与えていくことになります。

第1次世界大戦中にサンクトペテルブルグで生活した2人は、1917年の10月革命後にヴィデブスクに戻ります。美術行政の要職につきましたが、ソビエト政権が軌道に乗るにしたがい、革新的な芸術は受け入れられず。生活の困窮も重なって、再びパリへ帰り、パリで認められ幸福と安定を獲得しましたました。

しかし、今度はナチス・ドイツにより、彼の絵は「退廃芸術」との烙印を押され、焼却されてしまいます。そして第2次世界大戦が始まり、彼はフランスを脱出し、アメリカへ逃れなければなりませんでした。

アメリカ滞在中に彼は最愛の妻・ベラを失います。彼は失意のどん底にありましたが、戦後は再びフランスに戻り、南仏を拠点に活躍、シュールレアリストのひとりとして、その名声を不動のものにしました。

戦争も終結した1950年、シャガールは、南仏ヴァンスに移住し、52年にはヴァランティーナ・ブロドスキー(ヴァヴァ)と再婚。絵画のみならず、陶芸、彫刻、衣装のデザイン、教会のステンドグラスなどの創作にも意欲的に取り組んでいきま
す。1985年3月28日、フランスのサンポール・ド・ヴァンスの自宅で亡くなりました。97歳でした。

彼は22歳の時にベラと出会い、一瞬にして彼はその美しさに惹かれ、恋に落ちてしまったそうです。2人は共に白ロシアの出身ですが、彼の実家は貧しく、一方ベラは市内に3軒の宝石店を持つとても裕福な商家の娘でした。

翌年彼はパリへ行き、そこで画家として成功し、28才のときに故郷へ戻り、彼女との再会を果たすのでした。しかし、彼女の両親や親戚は結婚に大反対でしたが、二人はその困難を乗り越えて1915年に遂に結ばれることとなったということです。

彼女が亡くなった1944年に、彼は「彼女を巡って」という絵を残しています。この絵では、彼の自画像の頭は上下を逆転させて描かれています。これは、イディッシュ語で「頭が逆さになる」=「気が狂う」という慣用句から、妻の死がもたらした途方もない悲しみを表しているといわれています。


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