7月


6日
佐藤紅緑(さとう こうろく)(1874〜1949) 小説家

本名は洽六(こうろく)。津軽藩の漢学者佐藤弥六の次男として生まれました。弘前中学を中退し、上京して陸羯南(くがかつなん)の書生となっています。その後、「東奥日報」「河北新報」「報知新聞」の記者をしながら正岡子規に俳句を学び、「俳句小史」等の俳論書を刊行しています。

1906年発表の小説「行火 (あんか)」、戯曲「侠艶録」により当時全盛の自然主義の新人として認められましたが、やがて脚本家、小説家となっていきました。

彼は、社会問題をテーマに義理と人情を描くのを得意とし、大正期には新聞連載の家庭小説の人気作家となります。昭和に入ってからは児童雑誌「少年倶楽部」などに、貧しい熱血少年が金持ちのいじめっ子を見返して忠孝の道を一心に進むという「ああ玉杯に花うけて」や「英雄行進曲」などの大衆的な少年少女小説を執筆して圧倒的人気を博します。

作風は総じて複雑な社会を正義感を貫いて乗切る行動性で貫かれており、社会小説の先駆者ともいわれています。

詩人サトウ・ハチロー、小説家佐藤愛子の父としても有名です。
「------−日本の国民は何を望んだか、源にあらずんば平であった、ナポレオンを島流しにしたのは国民であったが、彼を帝王にしたのも国民であった事を忘れてはならない。然るに手塚君は何のために英雄を非認するか、英雄出でよ、正しき英雄出でよ、現在の腐敗は英雄主義が衰えたからである、僕の所謂英雄は活動写真の近藤勇ではない、国定忠次ではない、鼠小僧次郎吉ではない、而も亦尊氏、清盛、頼朝の類ではない、手塚君の英雄でもなければ野淵君の英雄でもない、僕は正義の英雄を讃美する、苟くも正義であれば武芸が拙なくとも、智謀がなくとも、学校を落第しても、野球が拙くとも、金持でも貧乏でも、几て英雄である、此の故に僕はこう言いたい、『几ての人は英雄になり得る資格がある』と」

何とも言い様のない厳粛な気が会場を圧して暫らく水を打った様に沈黙したかと思うと急に拍手喝采が怒涛の如く漲った。手塚は何処へ行ったか姿が見えない。千三は呼吸も吐けなかった。彼は光一の論旨には一点の隙もないと思った。

(ああ玉杯に花うけて)
サトウハチロー(1903〜1973)
本名は佐藤八郎。東京生まれ。父佐藤紅緑から福士幸次郎に預けられました。十五歳の時西条八十(やそ)に入門し、童謡を作り始めました。戦前から歌謡曲の作詞も手がけ、「リンゴの唄」等の大ヒット曲が多数あります。「かわいいかくれんぼ」「ちいさい秋みつけた」等、童謡の名作を多数発表し、少年小説、ユーモア小説、随筆なども数多く手がけました。戦後詩集に「叱られ坊主」「木のぼり小僧」「おかあさん」などがあり、戦後は童謡に専心し、木曜会で新人を指導した。日本童謡協会会長、日本音楽著作権協会会長なども務めています。
佐藤愛子(1923〜 )
大阪市生まれ。甲南高女卒。昭和二十五年、「文芸首都」同人となり、処女作「青い果実」を発表しました。昭和三十八年には、同人雑誌作家の夫の明るく屈託のない様子を妻の皮肉な目でとらえた「ソクラテスの妻」が芥川賞候補になります。そして、昭和四十四年、倒産した夫の多額の負債を背負いこんで奔走する妻を描いた「戦いすんで日が暮れて」で直木賞受賞しました。その後、「幸福の絵」で女流文学賞受賞し、「血脈」により菊池寛賞受賞しました。そのほかにも、「花はくれない 小説佐藤紅緑」「女優万里子」「スニヨンの一生」などの小説や、「我が老後」「なんでこうなるの」「だからこうなるの」などの痛烈かつユーモアあふれるエッセイによって多数の読者から支持される人気作家となりました。


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