7月


5日
ジョルジュ・ポンピドー(1911〜1974)フランス 政治家 大統領

パリ高等師範学校を卒業。その後マルセイユとパリの高校の先生をしていましたが、1944年から翌年にかけ、フランス解放後のドゴール臨時政府の官房に勤務して、ドゴールとの政治的協力関係が始まりました。1946年には行政裁判所調査官をつとめ、1954年からははロスチャイルド銀行に入り1956年にはパリ・ロスチャイルド銀行の総裁になりました。

そして、1958年のアルジェリア問題をきっかけにドゴールが政権に返り咲くと、ドゴール首相官房長となり、1961年のエビアン会談以来、アルジェリア臨時政府と交渉してサハラ石油資源開発問題を受け持ち、和平会談を成立に導きました。

1962年に首相となり、ドゴール大統領下の首相を連続4期つとめましたが1968年「五月危機」の歳には、学生や労働者のデモやストで大混乱の中、民意を問うとして、総選挙を実施して陣頭指揮を取りドゴール派を大勝させ「勇気ある政治家」との印象をあたえました。しかし、ドゴール大統領は「五月危機」の責任者としてポンピドー首相の辞任を求め、同年7月に首相を辞任しています。

その後、1969年のドゴールの辞職に伴う大統領選挙では第3代大統領に選ばれていますす。外交面では基本的にドゴールの「自主路線」を受継ぎながらも1973年には中国を訪問し、またイギリスのヨーロッパ共同体(EC)加盟を推進しました。また、内政では第6次5ヵ年計画を実施し、経済成長率年6%の実現を目指しました。

明るく気さくで、詩集も出している教養のある政治家といわれました。

5月危機
1968年5月パリの学生運動に端を発し、フランス全土に広がった社会変革を求める大衆運動。
フランスでは「大統領と病」の記憶が生々しい。ミッテラン前大統領は1981年の就任直後から10年以上がんにかかっていた事実を伏せ、95年の任期切れまでポストにとどまった。ポンピドー元大統領(69ー74年)も白血病に侵され、任期半ばに死去した。
鉄道の電化によって長くなった列車に対応できなくなり、廃墟のまま放置されていたオルセー駅に、印象派の絵を集めたいと考えたのがポンピドー大統領でした。太陽の光が降り注ぐオルセー駅ほど、印象派の絵に相応しい場所はないと考えたのです。計画から13年、建物は修復され、多くの美術館に散らばっていた印象派の絵が集められました。そして1986年、オルセーは、印象派の美の殿堂として産声を上げたのです。

7月


5日
ジャン・コクトー

(1889〜1963)

富は一つの才能であり、貧しさも同様に一つの才能である。金持ちになった貧乏人は、贅沢な貧しさをひけらかすであろう。(「恐るべき子供たち」より)

フランスの詩人

パリ郊外の別荘地メゾン・ラフィットで生まれました。父は弁護士で、ルアーヴル出の裕福な家柄。祖父は美術のコレクターで、音楽家達を家に招き、自らも演奏していたそうです。このような芸術を愛好するブルジョワ家庭に育ち、幼い頃から舞台芸術への興味が生まれたといわれています。

10歳のときパリに移り、コンドルセ高等学校に学び、早くから詩才をあらわし20歳で「アラジンのランプ」などの詩集を自費出版して、詩壇に出、前衛的芸術運動に活躍し、一躍パリ社交界の寵児となります。

音楽論「雄鶏とアルルカン」、詩集「喜望峰」を発表したのをはじめ、小説、戯曲、評論、絵画から映画に至るまで、幅広く活躍し、常に新しい芸術の旗手として、その多彩な才能を発揮し続けました。

彼の有名な小説に「恐るべき子供たち」、戯曲には「エッフェル塔の花嫁」などがありますが。彼は自分自身はあくまでも、詩人であるとし、劇も映画も「詩」の表現手段として考えていたといわれています。そのため「オルフェ」「地獄の機械」の劇作や、映画の「詩人の血」「美女と野獣」「双頭の鷲」などでも、独特の詩的雰囲気を表したとされています。

1960年には、フランス詩王に選ばれましたが、1963年10月11日、心臓発作でミイ・ラ・フォレの自宅で亡くなりました。74歳でした。
彼は、有名な歌手、エデイット・ピアフ死去の知らせを聞いた直後心臓発作を起こし急死したといわれています。彼は、サン・ブレーズ・デ・サンプル墓地に葬られましたが、その墓碑銘は、友人を大切にした彼らしく「私は君達を共に在る」でした。


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