7月


3日
フランツ・カフカ(Franz Kafka) 1883〜1924 チェコの作家 ユダヤ人

当時はオーストリア・ハンガリー二重帝国の都市であったプラハで、ユダヤ系商人ヘルマン・カフカとその妻ユーリエの間の長子として生まれました。

ドイツ系の小学校、フライシュ・マルクトの小学校に入学。当時のプラハには、ドイツ語系の学校とチェコ語系の学校とがあり、この両者の間の争いが絶えませんでした。彼の両親は、当時少数の支配階級と同じドイツ語を話すことを選択したのです。

その後、プラハ・ドイツ大学入学、初め化学を、次いで法学を学びました。この専攻選択は将来の職業選択を有利にするためだけのものであり、そのため本人の苦痛も大きかったといわれています。

19才のとき生涯の友人となるマックス・ブロートと知り合い、その友情は彼が亡くなった後も続きました。法学士の学位取得し法律事務所で見習生として勤務し、その後、一般保険会社に、臨時雇として入社しましたが、勤務規定の厳しさに絶望し転職します。

その後、1908年にボヘミア王国労働者災害保険局に、臨時職員として採用されています。チェコ系の強いこの局で、彼は「2人しかいないユダヤ人の1人」で、彼の高校時の同級生の父親が当時の局理事長であったことが、この就職を可能にしたといわれています。

保険局の仕事をしながら、作品を書く生活を続けていましたが、1917年、34歳の時に最初の喀血をし、肺結核と診断されます。39歳で労働者災害保険局を正式退職し、その翌年亡くなりました。

代表作品「変身」「城」「アメリカ」など。
彼は生前はまったく無名に等しく、ブロートの手で出版された数編の短編が、ヘルマン・ヘッセやトマス・マンらの注目を集めただけでしたが、死後出版された作品は,第2次世界大戦後にフランスとアメリカで高く評価され、文字どおり世界の文学界に衝撃を与え、20世紀ドイツ文学を代表する作家の一人と認められました
カフカの友人で遺稿保持者であったブロートが、死ぬまで秘蔵しつづけ、その死後も世に出ることはなかった、代表作の生原稿が、1988年、突然、ロンドンのサザビーズで競売にかけられ、20世紀文学としては最高の約2億5千万円で落札され、1990年、西ドイツでついに公開されています。
彼は、小説を書くために、なるべく就業時間の短い役人を選んだのですが、書くこと以外の仕事をしなければならないことを苦にしつづけたといわれています。又、彼は結婚を望んでいましたが、様々な理由で婚約と婚約破棄をくり返し、けっきょく生涯、結婚はしませんでした。
ちなみに、日本で最初にカフカを評価したのは中島敦だという。そして、最初の日本語訳が出版されたのが昭和15年(1940年)。白水社刊、本野亨一訳『審判』。なんと6、7冊しか売れなかったらしい。なお、そのうちの1冊を安部公房が買っていたのだそうだ。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に