7月


2日
ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)(1877〜1962)ドイツ 小説家・詩人

東インドで牧師の子として生まれました。彼は、厳格な父と芸術的素質に恵まれた母に育てられましたが、活発でいろいろと問題ばかり起こしていました。ヘッセから見た父は常に牧師として教えに忠実で、正しすぎ、叱るときも紳士的なためにかえってヘッセに孤独感を与えていたそうです。

13歳の時に、「詩人になるか、そうでなければ何にもなりたくない」と決心を固め、せっかく入学したマウルブロンの神学校を脱走してしまいます、更に、精神的に不安定な状況に陥り何度か自殺を試みたりもしています。そのため、精神病院につれて行かれそうになりますが「自分で稼いでいきたい。」と言ったことが認められ、自立の道を歩き始めています。

その後は、地元の機械工場で時計の歯車磨きの仕事をし、そのうちに、ようやく精神が落ち着き、本屋で働きながら文筆修行にはげむようになります。最初は詩作に励み、レーナウやノバーリスを思わせる詩風でしたが、1900年スイスのバーゼルに移ってから小説を書きはじめました。

1904年小説「ピーター・カーメンツィント(青春彷徨)」で有名になり、続いて、彼の自伝ともいうべき小説、「車輪の下」や「デミアン」「ガラス玉演戯」等の魂の自由を主題にした美しくロマンティックな作品を発表していきました。。

しかし、第一世界大戦の際には、戦争に反対したため周囲から非難され出版も停止させられてしまいます。そんな中、追い打ちをかけるかのように父が亡くなり、そして家族の病気と彼の身に不幸が襲い掛かります。

やがて、彼自身も鬱病にかかり入院し、度重なる精神分析の後、療養のため転地し、絵を描きながらの生活を送る中で、彼は回復し、再び、多くの作品を書いていきました。

1919年以後は、ルガーノ湖畔のモンタニョーラに定住し、1923年スイス国籍を得ています。1946年ノーベル賞を受賞しています

車輪の下
感受性の強い少年ハンス・ギーベンラートは神学校に入るが、詰込み主義の画一的な神学校教育に耐えられず反抗的になり家に帰されてしまう、しかし、そこでも適応する場を見出しえず、傷心をいだいて川でおぼれ死ぬ。
・・・と書くと、みもふたもないですね。
「車輪の下」は、ヘッセの自伝小説ともいえますが。ちなみに、主人公及びヘッセが入学してひどいめに遇うマウルブロンの神学校とは、卒業生の3分の1が神学をめざしてチュービンゲン大学に通うエリート校で、卒業生には天文学者のケプラー、詩人のヘルダーリンがいます。
ヘッセは文筆活動以外に、絵を描くことを好み、生涯に約3,000点にのぼる水彩画を遺しています。ヘッセが水彩画を始めたのは40歳代になってからのことですが、きっかけは、ちょうど第1次世界大戦頃、ヘッセが、反戦的発言のために故国ドイツで独立したことや、仕事の疲れ、家庭内の不幸などによって、社会的にも個人的にも苦境に直面し、精神的な危機に陥っていた時期に水彩画制作に安らぎや慰めを見いだしたことによるといわれています。ヘッセは、自分の生活圏であり、彼が第二の故郷と居を定めたテッシン州モンタニョーラ近辺−の家々や山並の風景を即興的に表現した作品を繰り返し描いています

7月


2日
石川達三

(1905〜1985)

昭和の小説家

秋田県平鹿郡横手町で12人兄弟の3男として生まれました。昭和2年「大阪朝日新聞」の懸賞小説に「幸福」が当選し、その賞金200円を学資として早稲田大学英文科に入学しましたが、学資が続かず1年で中退してしまいます。

その後、国民時論社に入社し、作品を各社に持込みましたが採用されず、同社の退職金で昭和5年ブラジル移民として渡航し日本人農場で働きますが、数ヶ月で帰国。再度、国民時論社に復職して「最近南米往来記」を連載します。

そして、貧しい娘が一家のため移民生活に入っていく過程をロンドン軍縮会議や国内での疑獄事件などの時代背景のなかに描いた「蒼氓 (そうぼう)」を発表。みごと、この作品によって第1回芥川賞を受賞し、文壇に認められました。

続いて、「日陰の村」を書き、中央公論社特派員として、日中戦争の戦場中支方面へ出発し、翌年1月まで南京に滞在しました。昭和13年この体験をもとに「生きてゐる兵隊」を「中央公論」に発表しましたが。同誌は即日発売禁止。新聞紙法違反で、彼は禁固4ヶ月、執行猶予3年の刑を受けることになります。


しかし、彼はその後も多くの作品を発表、「結婚の生態」「転落の詩集」などが評判となり、「母系家族」から新聞小説の筆を取り、流行作家となってゆきました。

第2次世界大戦後は「望みなきに非ず」「風にそよぐ葦」など、鋭い社会感覚をもりこんだ作品を発表し、多くの愛読者に指示されるようになりました。
者を集めました。

1月のある日、「寒い冬だ。春が待ち遠しい。」との絶筆を遺し、その月の末日朝、胃潰瘍から肺炎を併発、目黒・東京共済病院で「春」を待たずに静かに亡くなりました。
死を前にしての日記より

私の死はもう眼の前に迫っているが、私は死について何も考えて居ない。考えることの興味がない。多くの人が死について色々書いているがすべて無駄だと私は思っている。死後の生活は何もないと思う。人類の死者は何千万或いは何億。それが皆消えてしまって何ものも残っていない。死後の世界は空白である。私に宗教が無いように、死後についても全く何も無い。何か有るように考える人にとっては何かが有る。有ると考えればいろいろな美も考えられる。霊も考えられる。それはそれで宣い。私は何も無いと信じている。知友の心に何か美しいものを残して死ぬ事ができれば、それで充分である。死後について何か有ると考えたがるのは人間の弱さである。他の動物を人間は無数に殺しているが、相互に殺して喰うのが自然であり、そのあとには何も残りはしない。残らないから助かって居るので、何がが残るとすれば大変な事になる。


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