6月


30日
アーネスト・サトウ (Sir Ernest Mason Satow)イギリス 外交官(1843〜1929)

天保十四年(一八四三年)スウェーデン人貿易商ハンス・ダビッド・クリストファーの四男(3男という説も)としてロンドンに生まれました。父親の商売柄、転々と国籍を変える生活でしたが、小さい時から聡明で学業成績は非常に優秀でした。14才の時、兄が図書館から借りてきた「支那日本訪問見聞録」を読んで、東方には自分が知らない文明国があると、大きな衝撃を受け、未知の日本に興味を持ち、外交官を志すようになります。

大学を飛び級で卒業し、日本駐在通訳に応募して、1861年18歳の最年少で日本語通訳生に任命され、翌年、念願の来日を果たし品川高輪の東禅寺イギリス公使館で勤務することになります。この時、若干19歳で、その後はオールコック、パークスと二代に渡り、通訳として仕える事になります。

その後、日本語書記官に昇格し、1870年、日本人と家庭を持ち(正式な結婚ではない)、二男一女に恵まれています。明治維新後、シャム総領事となり、いったんは日本を離れますが1895年イギリス公使として再来日し。ナイト(サー)の称号を与えられています。
1900年からは、駐清公使として中国に赴任し、1906年勲一等旭日章を授与され、45年の外交官生活を終えました。

1921年、自らの回顧録「一外交官の見た明治維新」を出版しています。1929年86歳でその生涯を閉じています。

彼の才能は通訳という技能者のみに留まらず、匿名で英国策論という論文を発表しています。彼の主張を要約すると「将軍は大名達の盟主とも言うべき存在であり、日本の元首ではなく幕府も日本の公式政府ではないため、幕府と外交交渉を行うことは無意味であり、イギリスとしては天皇を奉戴する雄藩連合に手を貸して、日本の政治形態を一新させ、対日交易の円滑化を図るべきである」というものでした。これは、その後のイギリスの対日外交路線となっていったそうです。
サトウに関する本の中には、彼は4男であると書いた本もあるそうなのですが、デヴォンシャーのオタリー・セント・メアリーにある彼の墓に「H.D.C.サトウの3男として・・」と書かれているそうです。いったいどちらが正しいのかは不明です。
アーネスト・サトウは正式には一度も結婚しませんでしたが、日本には深く愛した家族がおり、愛情の証しとして多くの手紙が今も残っています。
夫人である武田兼(かね)との間には二男一女をもうけましたが、娘は幼少の頃に亡くなり、二人の息子はそれぞれ栄太郎、久吉(きゅうきち)と名付けられました。彼は1884年3月に日本を離れてからも、夫人や子供たちの事を心配して、几帳面に手紙を書き送っています。
タイから休暇で日本に戻った時には、家族のために千代田区富士見町4丁目6番地に新しい家を購入し、現在、この場所には法政大学の建物が建てられています。サトウは、大自然の中での生活が長男の栄太郎の健康のためには良いであろうと思い、アメリカのデンバーに程近い所に家畜農場を彼のために購入しました。しかし残念な事に栄太郎は1926年に結核症で亡くなってしまいました。次男の久吉(1884年・明治16年生まれ)はロンドン大学やキュー・ガーデンズで学び、日本を代表する植物学者として、また高山植物に関するすぐれた業績を残しました。
「一外交官の見た明治維新」

アーネスト・サトウの回想記。生麦事件、薩英戦争、長州の四国連合艦隊との戦い、王政復古、鳥羽伏見の戦い、等々の歴史的事実を直に体験した記述、あるいは、幕末の頃の旅篭や食事などの風俗、武士の気質の記録等々が記されています。
幕府の役人の外交交渉能力の無さを指摘する記述や、西郷隆盛が優れた人物であると見抜いている点なども、サトウ自身第一級の見識を持った人物であることを証明しています。
なお、本書は戦前は、外国人の目による明治維新の自由闊達な記述を、一般の目に触れさせることは、明治維新の偉業を元にした国民精神の基盤をゆるがすとの懸念から、禁書の扱いであったそうです。


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