6月


29日
アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ(1900〜1944)フランス 飛行家 小説家 童話作家

リヲンで生まれました。子供の頃は大変なわんぱくで、新しい遊びを考え付いては、いつも家の中をぐるぐる走り回っていたといわれています。机に向うのが嫌いで、海軍の学校を目指して3年も受験勉強をしましたが、結果は不合格でした。

その後美術学校に通いましたが、そこでも才能は認めてもらえず、20歳の時、兵役に就き、アルザス地方の航空隊に配属され、操縦士の資格を取りました。が、曲技飛行中に事故を起こし頭蓋骨を骨折し、22歳で除隊しています。

その後、タイル会社の事務員やトラックのセールスマンをしましたが、うまくいかず、婚約していた女性も他人の妻となってしまうなど、失意の日々が続きました。

そんな中、当時、アフリカ、南米への航空郵便の新路線競争が激しくなり、飛行士を募集していた、ラテコエール社に入社しカップ・ジュピーの飛行場長に任命されます。

そのときに書いた、航空郵便の飛行士としての体験を書いた「南方郵便機」「夜間飛行」で作家としての成功を掴みました。南米で知り合った美しい女性、コンスエロと結婚をしています。

けれども、相変わらず世渡りは下手で、社交界にも、論議好きの知識人グループにも馴染めず、その上金銭感覚にも乏しく、借金ばかりが増えていきました。1935年には、サイゴンまでの長距離飛行記録に挑戦していますが、2日目、目的地遥か手前のアフリカ・リビア砂漠で墜落してしまいます。

その後、第2次世界大戦が始まり召集され、偵察部隊に配属されて、アラスカへの偵察飛行により特別表彰を受けています。その後、パリがドイツに占領された後、米国に亡命しました。

しかし、ニューヨークでは、亡命フランス人同士の派閥争いと中傷合戦に巻き込まれてしまい、論議や駆け引きが苦手な彼は、悪意のうわさや中傷で、孤立してしまいます。

そんな苦しい亡命生活の中で、1942年 ニューヨークで「戦う操縦士」を出版、翌年には名作「星の王子さま」を出版しています。

正直で世渡りの下手な性格の彼は、中傷から逃れるように、志願して民間人資格のまま、偵察大隊に復帰します。

1944年7月31日。彼は、地中海・コルシカ島から1人乗りの偵察機で飛び立ちました。任務は、1万メートルの高空から適地を撮影することでしたが、彼の乗った偵察機はついに帰ってくることはありませんでした。
モロッコのカサブランカから南ヘ900キロ。アフリカ・西サハラのジュビー岬は、大西洋にせり出した岬に、石ころだらけの荒れ果てた風景が広がる。草も木も、砂丘さえもない。何もない場所でした。

 1927年、航空郵便会社の操縦士アントワーヌ・ド・サンテグジュペリは、モロッコと、仏領のセネガル・ダカールとを中継する飛行場の責任者としてこの荒涼とした岬に27歳の時に着任しました。

ここで過ごした1年程のことを彼は、「孤独だが、人生で一番幸せな日々だった」と、作家になってから回想しています。

当時のことを知る人は、彼のことをこう語ったそうです。

「彼は評判の勇敢な男だった。砂漠の危険地帯で遭難した飛行機乗りを、何度も救い出した」

「サンテグジュペリの飛行機は、いつも暗い空から下りてきた。だから村の者は、彼のことを尊敬の気持ちを篭めて呼んだ。夜の鳥、と」
偵察大体に配属された彼は、機銃の凍結問題を解決したり、電磁波信号による距離測定機器の特許をとりました。その才能を見込まれ空軍省から国立科学研究所に転属させられそうになるものの、航空大臣に直訴して偵察大隊に残っています。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。」

「あんたが、あんたのバラの花をとても大切に思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ。人間っていうものは、この大切なことを忘れてるんだよ。だけど、あんたは、このことを忘れちゃいけない。めんどうみた相手には、いつまでも責任があるんだ。まもらなけりゃいけないんだよ、バラの花との約束をね…」

狐が王子に言った言葉 「星の王子様」
「僕は、あの時、なんにもわからなかったんだよ。あの花のいうことなんか、とりあげずに、することで品定めしなけりゃあ、いけなかったんだ。…ずるそうなふるまいはしてるけど、根は、やさしいんだということをくみとらなけりゃいけなかったんだ。花のすることったら、ほんとにとんちんかんなんだから。」

王子さまが、旅に出るときに自分の星に残してきたバラのことを思い出していった言葉 「星の王子様」


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