6月


28日
ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)(1712〜1778)フランス 思想家 啓蒙主義者

ジュネーブで時計職人の父イザック・ルソーと母ジャンヌ・ベルナールの間に生まれましたが、生後9日目で母を失っています。彼は6歳までサン・ピエール大聖堂の近くの街で暮らし、父の妹シュザンヌに世話をされていました。

彼が10歳の時、父が権力者とのいさかいによってジュネーブを去らなければならなくなり、母方の叔父ベルナールにあずけられることになり、いとこと共にボセーのランベルシェ牧師のもとに寄宿させられ、そこで12歳まで生活しました。

その後、青年時代にはブァランス夫人に27歳保護を受けて古典や音楽を学び、1750年に懸賞論文「学問及び芸術論」が一統に当選して有名になります。

彼は堕落した人間を救う道は「自然に帰れ」であると説き、多くの人の共鳴を得ました、1753年に「人間不平等起源論」、1762年に「社会契約論」を書き、主権は人民にあり、政府は権力を委任された機関に過ぎないと述べ、フランス革命や民主政治に大きな影響をあたえました。

また、文明社会によってゆがめられない自然人の理想を目指して,エミールという架空の生徒がどのように育てられていくかを物語風に展開した「エミール」を書いて、新しい自由な教育を論じたが、彼の神という存在の捉え方について、また、平等思想についてがその迫害の対象になり、フランス政府によって弾圧を受けこの書は焚書令に付され、逮捕令まで出ました。

しかし、教育における「エミール」は、後の教育者に影響を与えました。近代の学校の形を造り上げたペスタロッチや、幼稚園を作ったフレーベルがその代表として挙げられます。

彼の著書「懺悔録」では、彼の一生が赤裸々に語られています。彼は7月2日に脳溢血によって66歳でなくなっています。
「エミール」は子供の生きる権利など、子供について書かれた著作でしたが、この書は焚書令に付され、逮捕令まで出ました。そのため、彼はリヨン、イヴェルドンを経て生まれ故郷ジュネーブに逃れようとしましたが、ジュネーブもまたルソーへの逮捕状を出していたのです。逃げる彼に追い討ちをかけるように、ヴオルテールがルソーの捨て子について暴露し、彼は多くの非難を浴びることになりました。
この様な事件を機に彼は1764年〜1770年に、赤裸々に自己をつづった「告白』を書きました。そして1770年、著作活動をしないことを条件にパリに戻っています。
彼が32歳の時知り合った、テレーズ(23歳)は生涯を共にする伴侶でしたが、彼女との間にできた五人の子供を、産まれたばかりで孤児院に預けています。彼は「告白」の中で「教育論の構想中、どんな理由からだろうと決して許されない義務をなおざりにしたことを、痛感せざるをえなかった」と言っています。
「エミール」は1758年頃着手され 60年に完成したジャン=ジャック・ルソーの代表作で,近代教育学の古典の一つに数えられています。
内容は、エミールと言う一人の健康な子供を主人公にその発達段階における先生(ルソー自身)との関わりが示されたこの書物は、各発達段階の子供について書かれています。

第一段階(0歳)
健康なエミールという子供をより健康に、かつ持ち合わせた可能性を開花するため、手の労働と肉体の訓練が有効であると説いている。また泣くという行為について、体の自由を奪われていることへの拒否、肉体的な必要を自らもとめることの出来ない大儀さを訴える子供の姿、と書いている。そして、0歳児の保育には、感覚教育を重視している。感覚教育は、それを通じて快・不快、適当・不適当を認めさせ、最後に幸福につながることを判断する力を付けさせる教育となっている。

第二段階(1歳〜12歳)
遊びの時代で子供の肉体を訓練する時代であると論じている。自然の中で遊びを学ばせ、理性に働きかけ(書物を読ませること)をしないことによって、次の段階で能力を開花させることができるとした。

第三段階(13歳〜15歳)
遊びの時代で培われた好奇心を基礎に感覚の重要性を指摘し、それが自分にとって有用、必要なものを判断する力をもたらすと強調している。つまりこの時期の課題は、学問そのものではなく知的好奇心を子供にもたらすということと言っている。

第四段階(16歳〜20歳)は、第二の誕生(「男性か女性に生まれる」時期)であると言っている。「指導されることを欲しなくなる」時期に人間や宗教について考え始め、周囲のことについて目を向け始める。その時期に、ルソーはエミールに歴史を教え始め、「裁判官として」の視点から歴史を見つめることによってエミールは「人の心を見る」とある。また、ルソーはエミールに神の存在を説いてもいる。彼の神というものへ考え方は、「欲し、行うことができる存在者、それ自身が能動的な存在者、つまり、それがどういうものだろうと、宇宙を動かし、万物に秩序を与えている存在者、この存在者をわたしは神と呼ぶ」というものであった。そして、20歳になったエミールに伴侶を求めることを教えている。

第五段階(20歳〜結婚)
幸福な結婚をし、愛する妻と共に市民として暮らすことをエミールに要求している。そして同時に、市民としての生き方を探求するための旅に出ることを彼に要求する。それは、「一国民しか見ていないものは、人間というものを知ることにはならない」というルソーの考えから来るものである。そして、旅を終えたエミールはソフィーという女性と結婚する。

6月


28日
ルーベンス

(1577〜1640)

「いうことなすこと、すべてだれにもよろこばれるように生まれついていた」

フランドルの画家、外交官

アントワープの法律家ヤン・ルーベンスの息子として、父の亡命先ドイツに生まれました。学校を卒業した後、イタリアとスペインで絵画を勉強し、1608年父の死とともに実家のあるアントワープに戻ってきます。

少年時代伯爵の小姓として仕えていましたが、のちアントワープで絵を学び、さらにイタリアに留学、ミケランジェロらの作品を見て影響を受けて帰国しました。

その後、スペイン領ネーデルランド総督アルブレヒト大公とイザベル大公妃の宮廷画家に任命され、1609年にアントワープの名家の娘イサベラ・ブラントと結婚アントワープ画壇の中心的存在として多くの弟子を抱え、貴族や教会から無数の注文を受けるようになりました。

しかし、1624年に娘クララ・セレナを、1626年には妻イザベラを亡くし、傷心を癒すべく外交官としてフランス、イタリア、イギリスで活躍しました。

そして、53歳の時、近くに住む絹織物商人の末娘で16歳のエレーヌ・フールマンと再婚します。晩年、5人の子供に恵まれ、フランドルの豪著な館で幸福な晩年を過ごしました。10年後の1640年に62歳の生涯に幕をおろしました。

彼の絵は強い感覚、明るい色彩、広い構図を特徴とし、生の喜びに満ち溢れているといわれています。神話画、宗教画、歴史画、肖像画、風俗画、風景画とあらゆる題材を描きましたが、パリノリュクサンブール宮殿大広間の21枚の大壁画は特に有名です。代表作は「最後の審判」「キリストの降架」等
日本でも1975年にアニメ化されたフランダースの犬のネロ少年が最後に見たとされる
ルーベンスの絵というのはベルギーのアントウェルペン大聖堂にあり1980年代頃より
ルーベンスの画の所在を尋ねる日本人が急増したと言われています。

アニメ フランダースの犬 最終話より

「ほら見てごらん、パトラッシュ、あんなに見たかったルーベンスの絵だよ」
「やっと見られたんだよ。」
「パトラッシュ、僕とっても幸せだよ。」


「疲れたんだね? 僕もだよ・・・」
「おじいさん、ごめんなさい、もう休んでいいでしょう?パトラッシュ、いっしょに休もうね・・・」

ネロとパトラッシュは、おじいさんやおかあさんのいる遠いお国へ行きました。
もうこれからは、寒いことも、悲しいことも、おなかの空くこともなく、
みんないっしょに、いつまでも楽しく暮らすことでしょう…。


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