6月


27日
ヘレン・ケラー(Helen Adams Keller)(1880〜1968)アメリカ 婦人教育家

アメリカ合衆国南部、アラバマ州タスカンビアという町で、父アーサー、母ケイトの間に生まれました。ケラー家は、代々地主で裕福な家庭でした。彼女は生後6カ月で「こんにちは」「お茶」などの言葉をはなし、満1才で歩き出すぐらい、当時の子供に比べて成長が早かったといわれています。

ところが、1才と7カ月の時、胃と脳が充血する急性の病気(熱病)にかかり、突然、目も耳も不自由となり、口もきけない3重苦の障害を背負ってしまいます。

7歳の時に心の優しいクリスチャンの家庭教師アニー・サリヴァン女史の熱心な教育をうけて、指を動かして読み取る話術の法を学び、特殊なタイプライターを使用して読書ができるようになりました。

1900年、幾多の困難を乗り越え、ラドクリフ大学に入学、彼女は入学前に理事長にこのような手紙を送ったといわれています「私が大学教育を受けるのには非常に大きな幾多の障害があることは十分分かっていますし、他の人たちには、それは乗り越えられないように思われるかもしれません。しかし、戦いの前に敗北を認めないのが、真の兵士というものです。」

優等の成績で大学を卒業した後はマサチューセッツの視力障害者のための団体などで働き、世界中を回って訴え続け、多くの障害を持つ人たちに勇気を与え、救済事業に尽くしました。

彼女は英語、ドイツ語、フランス語、ギリシャ語、ラテン語の五ヶ国語に通じ、広く学識を身に付け、テンプル大学から人文博士、グラスゴー大学から法学博士の称号を与えられています。

その一生は「20世紀の奇跡」といわれ、三重苦の聖女と呼ばれて多くの人から敬われました。日本にも1937年(昭和12年)以来、たびたび訪れています。
彼女がラドクリフ大学を目指していた時、理事長宛の手紙の中で彼女は次のように書いています。「私が大学教育を受けるのには非常に大きな幾多の障害があることは十分分かっていますし、他の人たちには、それは乗り越えられないように思われるかもしれません。しかし、戦いの前に敗北を認めないのが、真の兵士というものです。」

その後、彼女はラドクリフ大学を 1904年に優等で卒業しました。

その数年後、ウッドロウ・ウィルソン(アメリカ28代大統領) は、彼女になぜそんなにもラドクリフ大学に行くことに固執し続けたのかたずねました。彼女は「それは、大学の当局者が私を大学に入れたがらなかったからです。そして、天性の頑固な性格のゆえに、私は彼等の反対を乗り越えようとしたのです」と答えましたといわれています。
ヘレンと関わった人たちの中には、有名な人が大勢います。
電話の発明者として有名なアレクサンダー・グラハム・ベル博士
ヘレンの両親が目の治療で訪ねた医師チゾムから紹介され、彼と出会いました。彼は発明するということ以外に障害者のための活動をしていた人物でもあったのです。また、彼の知り合いを通じてアン・サリヴァンが家庭教師としてケラー家にやってくることとなりました。初めてヘレンにあったときから1922年にこの世を去るまでヘレンのよき理解者として相談にのり、彼女の人生を支えました。

他には『トム・ソーヤの冒険』などの小説を書いたことで有名なマーク・トウェインや喜劇俳優チャーリー・チャップリンなどとの交流もありました。
アニー・サリバン
9歳の時に両親に遺棄されたサリバンは、マサチューセッツ州テュークスベリーにある州立の救貧院に送られました。その施設で彼女は、アルコール中毒者・孤児・高齢者・精神異常者など、社会から忌避された人々の中で5年間すごしました。サリバンは小さい時にかかった目の病気のためにほとんど見えなかったので、 10代になるまで読み書きができませんでした。
その後、慈善委員会の委員が彼女を全米でも有名な盲学校パーキンスに推薦してくれました。その後、16歳の時に受けた目の手術で、彼女の視力はだいぶ回復しました。そのため、盲学院はもはやふさわしい場所ではありませんでしたが、家族もお金も生計を立てる手段もなかったので、そこに残留することを許されていました。
1886年に彼女は主席で卒業し、総代、すなわち卒業式でクラスを代表してお別れの辞を述べる学生に選ばれています。

そして、彼女はヘレン・ケラーの元へと旅立ったのです。
ヘレン・ケラーの言葉

「元気を出しなさい。今日の失敗ではなく、明日訪れるかもしれない成功について考えるのです。あなたは困難な仕事を自分に課しましたが、あきらめずにがんばれば、うまく行くのです。そして、成功への障害を克服することが喜びとなるでしょう。何かすばらしいことを達成するための努力というものは、決して無駄にならないことを覚えていなさい。」

「幸せの扉がひとつ閉じる時、新しい扉が開きます。それなのに、私たちはよく閉じられた扉を長く見つめすぎて、私たちのために開けられた扉を見ることをしないのです。」

「私は、自分の障害を神に感謝しています。なぜなら、それらを通して私自身を、私の仕事を、そして私の神を見出したのですから。」

「不幸せの極みにあるとき、自分にはすべきことがあるのだと信じなさい。誰かの苦悩を和らげてあげられる限り、人生は無駄とはならないのです。」

6月


27日
小泉 八雲(ラフカディオ・ハーン)

(1850〜1904)

文学者、随筆家

アイルランド系イギリス人であった英国軍軍医の父と、ギリシア人の母の間に、ギリシアの島レフカスで生まれました。

しかし、彼が6歳の時に両親は離婚し、その後はアイルランドのダブリンにて、大おばのブレナン夫人によって養育されました。彼女の住居の大きな薄暗い部屋で、彼は孤独で、愛に飢え、妖精におののきながら夢見る幼年時代を過しました。

この時代の体験である従姉妹ジェーンの“顔のない”幽霊をみた思い出は、彼の深層心理に刻み込まれ、後年の創作に大きく反映したといわれています。

16歳の時、ジャイアント・ストライドという縄遊びで、左目を喪失。しかも、ブレナン夫人の破産で、学業半ばで退学しなければならなくなってしまいました。

その後、彼は、オハイオ州シンシナティに移住し、新聞記者となり、文学書の翻訳やその他の仕事でかなりの成果を挙げ、ハーパー出版社に採用されました。

そして「ハーパーズ・マガジン」誌の特派員として日本へ行くことになり、1890年春に横浜に着きましたが、会社とのトラブルで、契約を破棄してしまいます。

しかし東京帝国大学のバジル・ホール・チェンバレン並びに文部省官吏の助力を受け、彼等の勧めによって、島根県尋常中学校及び師範学校にて、お雇い英語教師になることができたのです。

そして、県知事籠手田安定と西田千太郎の知己を得、後に藩士の家柄の娘、小泉セツと結婚しました。彼は、松江に15ヵ月滞在してから、日本の各地を渡り歩いて「知られざる日本の面影」「心」「仏の畑の落穂」などで日本の風土と心を紹介する一方、日本の伝説に取材した「怪談」で物語作者としての才能も発揮しました。

その間、チェンバレンの助力もあって、東京帝国大学文科大学にて英文学の教授となり。この身分は1903年まで継続し、その後早稲田大学に移っています。

1904年9月26日心臓発作により逝去、享年54歳でした。
彼が亡くなる数日前、八雲はその最後の家の庭の桜にこんな呼びかけをしていました。

「私は、来年の桜の季節を迎えることができないかもしれない。しかし、もう一度、この桜の美しい花々を見たい」

そして、八雲が死んだ翌日の、9月27日、この桜の木は八雲の願いを聞き入れ、突然に花を開かせたそうです。


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