6月


25日
アントニ・ガウディ・イ・コルネット(1852〜1926)スペイン 建築家

カタルーニャ、タラゴナ県の南西の商業都市レウスに父フランシスコ・ガウディ、母アントニア・コルネの第5子(3男)として生まれました。幼いころから工作が好きで、特に父の仕事場で一枚の銅板がいろいろな形に変化していく様を熱心に観察していたといいます。

11歳の時、初めてみた地中海と、レウスのローマ遺跡に掘られたバラ(聖母マリアの象徴)に感動して将来建築家になることを心に決めたといわれています。

16歳の時、バルセロナ県立建築専門学校予科に入学。当時、バルセロナは繊維などの新興産業によって大きく発展している最中で、同時に多くのアナーキスト達が、スペインからの独立運動を繰り広げていた。

アルバイトをしながら苦労して学校を卒業した彼は、内装や装飾の仕事を手掛け始めます。そしてガウディの建築の良き理解者であると同時に、彼の生涯の友ともなるバルセロナを代表する資本家アウゼビ・グエルと出会います、グエルは、彼の想像力を引き出すかのように次々と斬新な計画を持ち掛けました。グエル邸、グエル公園、コロニア・グエル教会など、彼の建築にはいくつもグエルの名前が冠してあります。

1883年、ガウディはサグラダ・ファミリア聖堂の主任建築家に任命されます。以後、彼はこの建築の設計に壮年から晩年に掛けての40年以上を費やし、しかも1917年からは他のいっさいの仕事を断ってこの仕事に専念しています。サグラダ・ファミリアの主任建築家として名声を得たガウディは、バルセロナとその近郊の多くの重要な建築物の設計を手掛けています。

サグラダ・ファミリア聖堂の建築途中で、彼は一時、精神的に困難な時期を迎え、自殺も考えるようになります。つまり"建築は施主を理解したうえで、施主を越えた物でなければならない。サグラダ・ファミリアの施主は神である。神を信じていない自分に神の家が建てられようか"と悩んだ彼は、徐々に信仰に目覚めてゆき、1842年2月の復活祭には、これまで神を批判し続けてきた自分を懺悔し、神の道へ転身するために40日間の断食をする事に決めてしまいます。彼は生死の境をさまよったあげく、親交の深いトーラス神父に現世での使命"サグラダファミリア建立"を諭されようやく一命を取りとめるのでした。

その日から敬虔な信者として、毎日教会のミサに出かけ、質素倹約を生活の旨として、聖堂建設に生涯のすべてを捧げる生活を送りました。1926年6月7日夕刻、彼はバルセロナ市内で路面電車にはねられ、まるで浮浪者のような格好だったために病院に収容されるのが遅れてしまいます。そして、ようやく運び込まれたサンタ・クルース病院で亡くなりました。遺体は ローマ法王庁の特別許可により、サグラダ・ファミリア聖堂に埋葬されました。
1878年に開かれたパリ万博。このとき、ガウディはバルセロナの革手袋商から出展する革手袋のショーケースのデザインを依頼されていました。

バルセロナの実業家エウセビオ・グエルは、このショーケースに魅了されてしまいました。グエルは繊維工業で成功を収めた実業家でしたが、芸術には特に関心を寄せていたため、そのショーケースのデザイナーがガウディであることを突き止めると、この新進建築家にいくつかのチャンスを与え、その才能が確かであることを確信したのです。

そして自邸の設計や、バルセロナのモニュメントともなるグエル公園の設計を任せるなど、グエルとガウディは施主と建築家であるだけでなく、芸術論をぶつけ合う良き友として一生のつきあいをしていきました。グエルにとってガウディは最高の建築家であったと同時に、グエルはガウディにとって最高の施主であり、ガウディ作品の理解者だったのです。
ガウディは生涯独身を通しました。
ガウディは3度女性に恋愛感情を持っています。しかし3度ともうまくいきませんでした。1度目は相手に婚約者がいました。2度目は神に仕える尼僧となることを決めた人で。3度目は建築に興味を持った人でしたが、残念ながら婚約者がいました。
もともと不器用で、恋愛は苦手なガウディは結局自分をうまく表現できずに一生独身を通すことになります。
後にガウディは"私が結婚することは天命ではなかった。"と弟子達に語っていたそうです。
3度目に恋した女性とシッチェスの海で約束したことがありました。それは「地中海を表現した建築をたてる。」ことで、それが「カサ・ミラ」であるといわれています。この恋愛のあとガウディは生涯独身を通し、建築家として生涯を神に捧げることを誓ったそうです。
ガウディはもともとカトリック信者ではなかった。むしろカタルーニャ主義のもと、宗教批判を繰り広げていました。

ガウディは兼ねてから、サグラダ・ファミリアの設計について「建築は施主を理解したうえで、施主を越えた物でなければならない。サグラダ・ファミリアの施主は神である。神を信じていない自分に神の家が建てられようか?」と悩んでおり、友人の薦めで、ある教会に神父を訪ねた。すると神父はガウディを諭すでもなく聖書とキリスト教暦を渡し、キリスト教暦をめくって見せた。「教会を建てるにはキリスト教の教会儀式を知らねば。」それからというものガウディは聖書とキリスト教暦を常に持ち歩くようになり、徐々にではあるが神を信じるようになっていったのです。

1842年2月の復活祭、ガウディはこれまで神を批判し続けてきた自分を懺悔し、神の道へ転身するために40日間の断食をする事に決めた。ガウディ42才の冬だった。2週間の断食の後ガウディは生死の境をさまよいました。サグラダ・ファミリアの建築は、その間ストップしてしまいました。そして、関係者に頼まれた親交の深いトーラス神父に現世での使命"サグラダファミリア建立"を諭されようやく一命を取りとめることになります。

その日からというもの敬虔な信者として、毎日教会のミサに出かけ、質素倹約を生活の旨として、聖堂建設に生涯のすべてを捧げることになったといいます。

6月


25日
上田秋成

(1734〜1809)

国学者、浮世草子・読本(よみほん)作家

実父母については諸説がありますが未詳で、4歳で堂島の紙・油商上田茂助の養子となりました。しかし、その翌年、天然痘を患い指が不自由になってしまいます。剪枝畸人の名はこれに由来しているそうです。

病弱であったので、少年の間彼は自由にのびのびと過ごしたそうです。しかし、成長するにつれ保養と称して各地の花柳町に出没。勝手無頼、放蕩三昧と荒れ、奇人、変人の癖は終生ついて回りました。そのため、養父が心配して塾に通わせたのですが、そこで彼は、勉学に励み、高井几圭に師事し俳諧(はいかい)で活躍しました。また、漢学も修め、朝鮮使節の通訳もしたそうです。

30歳前後からは和歌,国学に志し、賀茂真淵の高弟加藤美樹(宇万伎(うまき))に入門しています。また、このころから、浮世草子を書き、読本の形態を確立していきました。

彼の3作目の作品となった「雨月物語」は、前期読本の代表作であり、また江戸期怪異小説の中で最も著名な作品ともなりました。

その後、生活のため医者となりましたが、そのかたわら国学にうちこみ、本居宣長との論争を展開したりもしましたが、晩年は目を患うなどの不幸が続き、著作を井戸に投込むこともあり、窮乏のうちに亡くなりました。
雨月物語
江戸時代の中頃に作られた九篇からなる怪異物語集
友人との約束を守るため、自らの命を絶ってやってきた武士の話や、死んでもずっと夫の帰りを待ち続ける妻の話などせつないような、怖いようなお話がたくさんあります。


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