6月


24日
加藤清正(1562〜1611)戦国時代の武将

尾張(愛知県)の土豪、正左衛門清忠の子として、尾張国愛知郡中村に生まれました。幼名は虎之助といい、幼い頃に父を亡くしましたが、母が豊臣秀吉の生母の伯母にあたることから、長浜城の羽柴(豊臣)秀吉子飼いの武将となります。

元服して清正となり、秀吉に従って戦功をたて、1583年の賤ヶ岳の戦いには、一番槍の功名をあらわしました。1588年には肥後(熊本県)の国20万石を領し、熊本の城主となります。

1592年朝鮮の役が起こると、小西行長とならんで先頭にたち、1597年の朝鮮再征には蔚山(うるさん)城にこもって武名を大いにあげました。

豊臣秀吉の死後、その子の秀頼の保護者となりましたが、石田三成らの文治派とは不和になったため、関ヶ原では家康の東軍に属し、九州の西軍小西行長の宇土城、立花宗茂の柳河城を攻略。その功により行長の旧領及び豊後(大分県)鶴崎地方を加封され、54万石を領するだいみょうになりました。

秀吉の旧恩によりその子秀頼の保護に尽力し、19歳の秀頼が二条城で徳川家康と会見した時は、死を覚悟して秀頼の後見人を果たし、無事に家康との会見を終え、間もなく熊本城において亡くなりました。

清正の死は、豊臣の滅亡をいっそう早めたと言われています。
加藤清正の河童退治という話があり、内容は「球磨川の河童が清正の寵愛する小姓に横恋慕し、想い激しく川に引き込んだ。カンカンに怒った清正は全軍挙げて河童掃討作戦を展開。そのため河童の九千坊一族は難を逃れ筑後川に移住した。」というものであるそうです。

肥後国隈本八代の辺に川童多し。然れども所の人に害をなさずとなり。加藤清正、当国の主たる時、川狩りありしに、児小姓一人川童のために水中に入る。清正大きに怒り、わが領地にありて我が家入の命を絶つこと言語道断なり。此のうえは国中の川童を狩りて一つも残さず打ち殺すべし。先ず他所へ退けざるやうにとあまたの貴僧高僧集めて是れを封ぜしむ。偖、川上よりからに毒を流し、数千の石を焼きてかくれいる淵へ投入るは淵を涌すの理なり。猿は川童を見ると力を増し、川童は猿にあふと立ちすくみに成るものなり。猫に鼠よりもきびしかし。強勢の清正頼りに下知あれば、国中の川童どもただ酔えるがごとし。川童九千の頭を九千坊と言えり。大いに悲しみ、封ぜられし衆僧をたのみふかく嘆きければ、再三願ひやうやう免されけり。「本朝俗諺志」加藤清正、肥後の領主たりし時に狩りに出て扈児従を引入れられしにより大いに怒りて残りなく毒殺せんとす。その魁首を九千坊という。大いに嘆きて僧に請ひて宥められんことを背ひて免されぬ。「和訓栞」
九州八代に上陸後の事件である。九千坊の配下の河童が熊本の加藤清正公の小姓を川に引き込むという一事件が起こった。清正公の寵愛の小姓であるので、知将で知られた清正公は大いに怒り、河童全滅作戦を展開した。国中の名僧、高僧を集めて、まず河童を封じ込め、川上より毒薬を流し、数千の焼石を渕という渕に入れ、阿蘇の山奥に住む猿群を動員して集め、渕から這上がる河童を捕らえさすべく命令したのである。さすがの九千坊もほとほと弱り切り、とうてい清正には勝目がないと悟り、球磨群渡村の山中にある禅寺の開雲和尚を通し、以後は肥後の国人には決して害を与えないということで、清正に許してもらったということである。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に