6月


19日
ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal )(1623〜1662)フランス 思想家、数学者、物理学者

クレルモン・フェランの貴族の家に生まれました。彼は、子供のころから図形遊びが好きでした。ユークリッドの定理(三角形の中の角度をたすと180度になること。)を、だれからも教わらずに子供のころに発見しました。又、16歳で「円錐曲線論」を発表し、数学者を驚かせています。

ついで、税務官吏の父親が、毎日、大変な計算におわれていたため、彼は、父親の計算を助けるために、自分で作った手まわし式の計算機(歯車式演算装置「パスカリーヌ(パスカルの計算機)」)を、父親にプレゼントしました。

彼の作った「パスカリーヌ」は、理論的に計算機の製作が可能であることを実証し、現在の私たちが当然のものだとみなしているコンピューターの概念を多数導入し、その後の計算機の発展に大きな影響を与えました。

1653年、確率論の法則を発見、また「流体の一部に加えた圧力は同じ強さでどの方向にも伝わる」という、「パスカルの原理」を確立し、流体の圧力に関する研究は静水力学及び気象学の基礎を築くものとなり、その功績から、1971年に圧力の国際表示単位は「パスカル」(Pa)と決められました。気象の世界でも、長く親しまれた「ミリバール」から「ヘクトパスカル」を使うようになりました。

科学者としては「自然界においては実験だけが頼るべき唯一の師である」と述べて、科学における実験的な方法論を確立しました。

1646年頃から信仰に傾き、イエズス会による異端審問を批判。思想的には現代実存主義の先駆とみなされています。彼は、1654年に修道院に入って病気と闘いながら、「パンセ」(瞑想録)を書きましたが、本を完成しないまま亡くなりました。死後、切れ切れの紙に断章の形式で書き留められた原稿の束が発見され、修道院の友人たちによってそれが編集されて、後に「パンセ」と呼ばれる書物となりました。

その中の「人間は考える葦である」ということばは有名です。
彼の名言
「人間は天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使のマネをしようとすると獣になってしまう。」
「もしクレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていたであろう」
世界で最初に「誰でも利用できる馬車の交通システム」の思想を生みだしたのは、17世紀フランスの哲学者・思想家のパスカルと言われています。それまでの馬車は予約制でしたが、1662年パリの町中で誰でも自由に乗れる2頭立て8人乗り馬車の運行が始まりました。当時の運賃は片道5スー。その時職人さんの一日の賃金が約20スーと言われています。
彼は、現在の私たちが当然のものだとみなしているコンピューターの概念を多数導入しています。彼の歯車式演算装置「パスカリーヌ(パスカルの計算機)」は金額の足し算を目的に設計されましたが、補数のテクニックを使えば、引き算や掛け算、割り算も実行できました。

また、パスカルは10年間にパスカリーヌを50回以上も修正し、現在の世界中のコンピューター企業が追随することになる多数の修正版という前例を作ったのです。
パスカルとフェルマーは、パスカルが友人の一人から賭け事に関していくつかの相談を受けたことがきっかけで書簡をかわすようになり、それが現代の確率や組み合わせ論の礎になったと言われています。

6月


19日
太宰 治(だざい おさむ)

(1909〜1948)

昭和初期の小説家

青森県北津軽郡金木町に生まれました。大地主の六男で、本名は津島修治。父は貴族院議員を務め、三兄の文治は青森県知事を経て、衆議院議員・参議院議員になるというような家柄でした。彼は生母が病弱であったため乳母や子守に育てられたそうです。

彼は、大地主の子であることに罪悪感をいだいており、しだいに左翼思想に関心をよせて行きました。弘前高校に入学しましたが、心酔していた芥川龍之介の自殺に大きな衝撃を受け学業を放棄し、義太夫を習い、花柳界に出入りするようになり、芸妓の小山初代と知り合うようになります。3年生の冬、自己の出身階級に悩んでか、自殺を図りましたが失敗しています。

その後、東京大学仏文科に入学し、初代との結婚話がまとまった直後に、別の女性と心中未遂をはかり、女性は死に、彼だけが生き残り、自殺幇助罪に問われましたが、起訴猶予となっています。

その後、大学卒業が絶望とわかり(半年後に授業料未納で除籍)都新聞社の入社試験を受けましたが、不合格となり、鎌倉の山中で首吊り自殺を企てましたが失敗しています。

さらに、その自殺未遂の翌月、急性盲腸炎などのため、3か月ほど入院している間に、鎮痛のために使った麻薬(パビナール)の中毒となってしまいましたが。この時期、絶望と苦悩を描く「ダス・ゲマイネ」などを執筆しています。次第にすべてが行き詰まり、妻初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチンによる自殺を図りますが失敗し、その後、初代とは離婚しています。

1938年秋、御坂峠に登ったころから、生活も文学も一変し、ようやく沈滞から脱し「姥捨」を書き始めています。そして、師と仰ぐ井伏鱒二の紹介で都留高等女学校の教師、石原美知子と再婚し、ようやく安定した生活を送るようになり、素朴で純粋な作風の「富嶽百景」「女生徒」「走れメロス」「新ハムレット」や、自身の根源を確かめる「津軽」などを執筆しました。

戦後、ジャーナリズムの浮ついた民主主義的傾向に失望し、作風はまた一転。坂口安吾・石川淳らとともに新戯作派(無頼派)と呼ばれ、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」など自虐的な作品を執筆しました。

1948年、6月13日夜半、連載中の「グッド・バイ」の草稿、遺書数通、伊馬春部に遺した歌などを残し、山崎富栄と共に玉川上水に入水しました。
奇しくも、彼の39歳の誕生日である6月19日に、彼の遺体は発見されました。そしてその遺体が発見された6月19日をファンにとっての命日と考え、偲ぶ会としての「桜桃忌」が催されるようになりました。「桜桃忌」の名は、太宰の死の直前の名作「桜桃」にちなんでつけられたそうです。
彼のお墓は、昭和24年6月の一周忌に、森鴎外の墓の斜め前に建てられました。彼の「花吹雪」という作品に「この寺の裏には、森鴎外の墓がある。(中略) ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」という一文があり、その意が汲まれて、彼の遺骨はここに葬られることになったそうです。


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