6月


18日
エドワード・シルベスター・モース (Edward Sylvester Morse)(1838〜1925)
アメリカ 博物学者 日本の動物学・人類学の育ての親

メーン州ポートランドに生まれました。12、3歳の頃から貝の収集を始め、18歳で新種も発見し、10代の末にはボストン近辺の同好家に名が通っていたほどです。一方、彼はも
ともと絵がうまく、16歳で製図工の職に就いたほどの腕前でした。その後、ハーバード大学に学び、ボードン大学教授となりました。

貝類の研究をしていた彼は、腕足類の研究のため、それが豊富な日本での研究を計画し、1877(明治10)年にサンフランシスコを発ち横浜に到着し、江ノ島に臨海実験所をたてました。

6月18日に横浜に到着した彼は、20日横浜から東京に向かう汽車の窓から、大森駅をすぎてほどなく線路左側の崖に貝殻の層が露出しているのを見て、それが古代の貝塚であると直感します。

翌7月には、東京大学理学部動物学生理学の教授になることを依頼され、動物学、生物学を教えました。大森貝塚の発掘調査を実施するうえでの有利な地位と資金を確保できた彼は、さっそく、9月から大森貝塚の発掘に取り掛かり、数多くの貴重な発見をして、日本の考古学・人類学の幕を開いてゆきました。

東京大学の教授となって、わずか2年の間に彼は、大森貝塚の発掘以外にも、近代動物学への導入、東京大学生物学会(現日本動物学会)を創設し、東大に進言して日本最初の大学紀要を発刊させ、また、博物場を新設させています。

さらにダーウィンの進化論を紹介し、大学で講義するだけではなく、各地をまわって講演し普及につとめました。また、近畿、北海道の古墳も発掘しています。

また、日本の風俗、陶磁器などの研究にも興味を持ち、収集した品はボストン博物館に保存されており、ボストン美術館と日本との関係を初めて切り開いた功労者でもあります。また、滞日中の日記を基に記した「Japan Day by Day」は、当時の日本の様子を知るための資料として、大変貴重なものとなっています。
彼は終生日本と東京大学を愛したといわれています。1923年関東大震災で東京大学図書館が壊滅したことを知ると、自分の蔵書をすべて寄贈することを遺言したほどです。現在でも総合図書館蔵書の中にモース寄贈の印が押された本があるそうです。
モース日本到着の2ヶ月前、明治10年4月に東京大学は開設されています。東京大学との契約は、明治10年7月から2年間、月給は350円(ちなみに日本人教授は100円)でした。
大森貝塚の発掘は同年9月から11月にかけて数回にわたって行なわれました。

発掘された資料は土器類を主とし石器、骨角器、獣骨、人骨があり、1879年新設の大学博物館に陳列されました。

採集された資料の報告書は、英文編Shell Mounds of Omoriが明治12年(1879)7月に東京大学理学部紀要1巻1号として、和文編『大森介墟古物編』が同年12月に理学部会粋第1帙上冊として刊行されました。

とくに彼の専門である貝の研究は詳細を極め、それを組成する貝類の違いから年代の古さと環境の変化を推定している。大森貝塚の特徴を世界の貝塚と比較しその個性と共通性を論じています。
発掘の詳細な記録はありませんが、発掘時、地主に対する保証が50円という大金であったことから、その規模が相当大きなものであったことが推定されています。
彼はボストン美術館と日本との関係を初めて切り開いた功労者でもあります。後にフェロノサをはじめとする多くのアメリカ人に訪日を勧め、ビゲローにも多大な影響を与えました。日本陶磁器の美しさに魅了され、5000点以上の名品を集めています。コレクションは19世紀に日本で作られたすべての出所、窯にしたがって体系的に整理され、1892年にフェロノサの尽力でボストン美術館に売却されました。
彼はまた、著書『日本の住まいとその周辺(Japanese Homes and their Surroundings)』(1886)などに見られるように、日本の民俗学にも深い興味を持ち、 多くの貴重な記録や写真、 民具、 陶磁器のコレクションを残しました。


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