6月


15日
空海 (774〜835)平安時代の僧 真言宗の開祖

讃岐の国(香川県)屏風が浦に生まれました。名族・佐伯氏の出身で、幼名を真魚(まお)といいました。幼い頃から秀才の誉れ高く貴者(とおともの)と言われ、やがて叔父に連れられて、都へのぼり、官吏になるために大学に入学しました。

しかし、大学で学ぶ儒教に自分の求めるものがみつからず、やがて仏の教えを目指すようになり、大学を辞めてしまいます。

悩みの中で、彼は、一修行僧から「虚空蔵菩薩の真言を百日にわたって百万遍唱えれば、あらゆる教法の文義を暗記できる」という虚空蔵求問持法を教わり、その後、諸国をめぐって多くの修行を積んでいきます。

儒教や仏教をきわめつくした彼は、804年に遣唐使と共に、唐に渡り、青竜寺の恵果阿闍梨のもとで密教の伝授を受け、諸地をめぐり文献や法具をたずさえ2年後に帰国して、真言宗を開き、816年には高野山を賜り金剛峰寺をたてました。

また、823年には真言宗の道場として京都の東寺を賜り、ついで高雄山寺を真言寺と改めました。そして、諸国をまわり仏教をひろめ、橋をかけたり道路を開いたり、池や堤などの改修もしました。また、故郷四国讃岐の満濃池の修築を行い、当時最新の技術で、その修築を終えています。

830年主著である「秘密曼荼羅十住新論」を著し、生きながらにして仏となる(即身成仏)の理論を完成させ。835年3月21日寅の刻、声明の響きの中、「入定後56億年後に弥勒菩薩の御前にはべり現世に現れ、世を救うだろう」と言い残して入定しました。

彼の死後、弟子達の熱心な奏請により、朝廷より「弘法大師」の諡号が贈られました。

彼は、学者としても優れ、仏教学では「三教指帰」「十往心論」等を著し、また、修辞学の書「文鏡秘府論」や漢詩、漢文を集めた書、それに文字について説いた書などの著作は、後の日本の文学界に多くの影響をあたえました。

彼が19歳のとき、今の高知県室戸岬にある洞窟(御蔵洞)で求問持法を修行していたとき、口に明星が飛び込んできて悟りをひらいたと伝えられています。その間、彼が目にしていたものは、海と空だけであったため、これを記念し、以後、「空海」と名乗ったそうです。
空海と最澄
最澄は空海より金剛界結縁伝法灌頂を受け密教を学びました。しかし、筆授により密教を極めようとする最澄に、空海は密教の境地である「理趣釈経」の借覧を断り、しかも最澄の後継者である泰範を自分の弟子にしてしまいます。ここで最澄と空海は決別しました。
言い伝えによると空海は、久米寺(奈良県)の塔で「大日経」と巡り会いました。しかしながらその経はサンスクリット語で書かれていたり、呪文や秘文について分からない点が多く、遣唐船で「唐」に渡り直に密教を学ぶことを決意します。そして、叔父の阿刀大足や大足が仕えた恒武天皇第三の皇子に取り計らって留学僧として「唐」に渡りました。空海31歳の時です。

このときのことを空海は「たまたま志願者が少なかったので、留学僧の末席につらねてもらった」と書き残しているそうです
空海の誕生にまつわる話
空海の母は天竺(今のインド)、その国の偉いお坊さまが、身体の中に入ってきた夢を見て、身ごもったといわれています。そのため「この子は前世、仏に仕える人であったに違いない、将来はお坊さんにしよう。」と話しあったそうです。

それから、たいていは子供は十月十日で産まれますが、十二ヶ月もお腹の中にいて生まれたともいわれています。聖徳太子も不空三蔵(中国の偉いお坊様)も、十二ヶ月経ってから生まれたといわれていたので、これはえらい尊いお人が生まれたのだと非常に喜んだと伝えられているそうです
また、伝説では
空海が七つになった時、もし自分がみんなのために生きる値うちのある人であるなら、仏が助けてくれるはず思い、高い崖から飛び下りたところ、天人が舞い降りてきて、彼を助け元いた場所に、そっと置いてくれたといわれています。


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