6月


10日
徳川光圀(みつくに)(1628〜1700)

江戸時代初期の水戸藩主、頼房(徳川家康11男)の3男、家康の孫で、水戸城下、柵町の三木之次(みきゆきつぐ)という家老の屋敷で生まれ、事情があって5歳まで身分を隠して三木夫妻に養育されています。6歳のとき、長兄頼重(よりしげ)を越えて(次兄は幼いとき死亡)、世継ぎに決められると、江戸小石川の水戸邸へ移り、実父のもとで武士的教育を受けることになりました。

15〜6歳のころから、繁華街を放浪したりなど、遊びに興じていましたが、18歳のとき、ふと『史記』(前漢の司馬遷が書いた歴史書)の伯夷伝(はくいでん)を読み、深く感動し数々の誓いを立て、名君への道を歩き始めます。

頼房が没した後、34歳で第二代水戸藩主となり、庶民が深刻な給水難に苦しんでいるのを知ると、当時としては最高技術水準を誇る笠原水道を敷設し、また、寺社の移転と整理、家臣の共同墓地の設置、和紙の専売実施など多くの改革に取り組むなど藩政に尽力し、藩内外から名君と仰がれました。

さらに、藩内の改革にとどまらず、蝦夷地と交易するために巨船「快風丸」を建造し、蝦夷探検も行っています。また、全国から優れた学者を集め、「大日本史」の編さんに努めました、この事業は代々の藩主に受け継がれ、編纂事業が完了し、「本紀」「列伝」「志」「表」の全てが揃い合計397巻と目録5巻が完成するのは250年後の明治39年のことでした。

大日本史を編集したときに、歴史編纂をした人々を史臣といい、彼らは全国各地に史料を求めて旅をしたため、これが後に「水戸黄門漫遊記」として脚色されることになりました。

1690年、長兄の松平頼重(よりしげ:高松藩藩祖)の子である綱條(つなえだ)を養子として藩主としました。光圀は隠居して藩主の地位をしりぞくと、自分でも畑をたがやしたりして、近所の農民たちと親しく接したといいます。晩年は常陸太田市の西山荘にて隠居し、73歳で没しました。
光圀といえば、黄門様ですが、黄門と言う呼び名は、光圀に与えられていた官名・中納言の唐名だそうです。特に講談によって全国的人気を博した江戸末期から明治になって、諸国を漫遊し悪代官を退治するとのイメージが広まりました。
光圀は15〜6歳のころから遊興に走り、江戸の繁華街を放浪したり三味線を楽しむようになり、守役が熱心に諌めても効果がありませんでした。

しかし、18歳のとき、ふと『史記』(前漢の司馬遷が書いた歴史書)の伯夷伝(はくいでん)を読み、一生を全く変えてしまいました。

第一に伯夷・叔斉(しゅくせい)兄弟の相続の譲り合いから、兄を越えて「世継ぎ」となったことにひどく心を痛め、これまでの自分の態度を恥じ、ついに兄の子を養子にして跡を継がせようと堅く決意します。

第二に、読書学問が自分の人格の確立にどんなに重大であるかを知って、これから生涯学問に専心し、人に対する思いやりの心を深める決心をします。

第三に、史記にならって日本の歴史を編集する志を立てました。

第四には伯夷・叔斉が周の武王の革命を否定したことから、日本の国柄を守るために、君臣の大義を明らかにすることを決意します。

それ以後、この志の貫徹を念願としながら生涯をすごしたそうです。
助さん・格さん、は実在の人物で、徳川光圀が彰考舘で大日本史を編集したとき仕えた史臣(歴史編纂をした人々)のなかで総裁になった人でした。

助さんは、佐々十竹(ささじゅちく)(介三郎宗淳)(1640〜1698)
格さんは、安積澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛)(1656〜1737)

特に、助さんこと佐々介三郎は光圀公の命により、神戸・湊川に長期間滞在して『嗚呼忠臣楠子之墓』を建て後世に大きな影響を与えました。史臣は多いときには60名近くもいたそうです。
黄門様こと、光圀は「天下の副将軍」などともいわれていますが、この副将軍という役職は幕府にはありません。
じつは、水戸藩主は、ほかの大名と異なり、老中などの幕府要職者と同様に参勤交代せず江戸に常住すること(藩主定府)と定められていました。これは危急の際の徳川一門の補佐役の意味があったと考えられていて、そのため、いつのまにか副将軍と呼ばれるようになったそうです。


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