6月


9日
ピョートル1世(大帝)(1672〜1725)ロシア皇帝

彼は父、「アレクセイ帝」の第二夫人の息子として生まれました。10歳のときにツアー(ロシア皇帝)として即位しましたが、異母兄イヴァン5世と同格の共同統治者にすぎず、しかも異母姉ソフィアが摂政として実権を握っていました。

そのため彼は自らモスクワを去り、郊外の村で暮らすようになり、村の同世代の子供達と「兵隊ごっこ」に熱中したのですが、この村の近くに「外人部落」があり、彼はここで外国の知識を手に入れ、それを「兵隊ごっこ」に取り入れ、本物さながらの軍隊を作りあげました。

そして、この「兵隊ごっこ」に加わっていたメンバーが後に彼の片腕となる者達で、ここでできたそれぞれ300人からなる二個大隊が後のロシア初の近衛連隊となったのです。

その後、クリミヤ遠征の失敗など、失政にあせったソフィヤが、人気のある彼を完全に取除こうとしてクーデターを起しましたが失敗。彼は共同皇帝イヴァン5世を退位させ、摂政ソフィアを修道院に幽閉し、実母ナターリアに国制を任せました。1694年、母の死により、彼が親政を開始します。

彼はまずロシア海軍(艦隊)を創設し、アゾフに遠征して勝利を収めました。また、その翌年には、オランダやイギリスを訪問しています。帰国すると彼は、ロシア人の服装や政治のシステム、年号の数え方を、西欧風に変えました。

軍事面でも彼は活躍し、スウェーデンとの北方戦争(1700−21)に勝利し、バルト海沿岸をロシアの領地としました。海岸(港)を領地とすることにより、通商上、軍事上で新たな一歩をを踏み出すことができました。

彼は、こうして獲得したバルト海沿岸に、スウェーデンに対する要塞として新都市、「サンクト・ぺテルブルク」の建設を開始し、1712年、彼は首都をモスクワからペテルブルグに移しました。

その後、彼はトルコ、モルダヴィア、プルートと、遠征を繰り返していきます。そして、1721年正式に「北方戦争」の勝利者となった彼は、ロシアを「ロシア帝国」として、世界の歴史に登場させました。

その後は国内の工業の発展に力を注ぎ、医学、造船学、建築学、兵学など多大な知識を持っていた彼は、自ら道具を手に働き、人々は彼を「職人皇帝」と呼びました。

そして、議会制も「元老院」を設置し、その元老院からは「インペラトール(大帝)」の称号を与えられました。

亡くなる年以外の彼の治世は全て戦争に費やされましたが、その死因は過労のためと言われています。
彼は父、「アレクセイ帝」の第二夫人の息子でした。このアレクセイには第一夫人との間に14人の子供がいたため、皇帝になるとは思われていませんでした。ピョートルの母の家は宮廷の権力争いの中では、第一婦人の家と争っていたのですが、ピョートルが四歳の時、父アレクセイ帝が亡くなると、異母兄、つまり第一婦人の息子のフョードルが後を継ぎ、このためピョートルの母の実家、ナルィシキン家の立場は弱くなってしまいました。

しかし、ピョートルが10歳になる直前、フョードル帝が亡くなり、後継ぎには弟のイワンを立てようとしたのですが、イワンは虚弱で白痴に近く、ピョートルを皇帝に立てようという声が大きくなってきました。このことで宮廷騒動が表面化し、結果としてピョートルを皇帝に立てるのですが、第一婦人の実家、ミロスラフスキー家が反対をし、彼らはモスクワの守備隊、銃兵隊の力で実力行使で帝位奪還を試みました。

結果、ミロスラフスキー家はイワンも皇帝とし、ピョートルと共同統治と言う形を取りましたが。しかし、実権を握っているのは
ミロスラフスキー家で、ピョートルは「第二皇帝」という立場でしたが、ほとんど追放と同じ状態でした。
「大帝」の名の通り、彼は身長2m12cm、片手で銀貨を曲げたり、兵士の髪の毛を掴んで、吊るす事ができたほどの怪力でした。
彼の建てた街、「サンクト・ぺテルブルク」はロシア革命で王朝がなくなるまで首都であり続けましたが、「サンクト・ぺテルブルク」、「ペトログラード」、「レニングラード」、
そして再び「サンクト・ぺテルブルク」へと改名されていきました。

「サンクト・ぺテルブルク」とは、ピョートルの名の由来となった「聖ペテロ」からとられ、「聖ペテロの街」と言う意味です。

6月


9日
滝沢馬琴(本名 滝沢興邦 又は 解 、曲亭馬琴)

(1767〜1848)

江戸後期の小説家


深川の旗本松平信成家の用人、滝川運兵衛興善の5男として、江戸松平屋敷内長屋で生まれました。彼が9歳の時父が亡くなり、長兄が家督を継いだものの、その翌年には、彼が10歳で当主となっています。その後、主家である松平家の嫡孫八十五郎に仕えましたが、この八十五郎が、あまりにも愚かで、辛く苦しい勤めとなったためか、14歳のときに主家を出奔してしまいます。

そして、奉公などで放浪の末、24歳の時に、戯作者で浮世絵師でもあった山東京伝の門に入り、滑稽本よりも物語性が強い読本を、山東京伝とともに次々と発表、彼の作品は常に評判となり、第一人者となり、江戸文壇の王者と称せられるようになりました。

その後、「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」を刊行し、48歳のとき、「南総里見八犬伝」の刊行を開始します。しかし、67歳の頃から、右目が見えなくなり、73歳では左目も悪くなり、ついに文字が書けなくなってしまいます。

しかし、75歳の時に、早死にした長男の未亡人お路に、字を知らない彼女に字を教えながら口述筆記をさせて、開始から28年もの歳月をかけて、106冊にも及ぶ長編「南総里見八犬伝」が完成させたのでした。

彼は、82歳まで長生きをし、著書400余部、1400冊に余る江戸文学最大の業績を残しました。
彼の師にあたる山東京伝が、筆禍事件で逮捕され手鎖五十日に処せられたとき、彼が京伝の代作をして助けたこともあるそうです。
滝沢馬琴
みなさん、文頭の名前が少しおかしいと思いませんか?ちなみに、滝沢は本名で、馬琴はペンネーム。つまり、滝沢馬琴というのは本名とペンネームが合体しているのです。だから、本名で呼ぶのならば、滝沢興邦 又は 解。ペンネームで呼ぶのならば、曲亭馬琴なのですが、多くの本には、滝沢馬琴と書いてあることが多いです。何故なのでしょうか?ちなみに、彼は滝沢は武士の家名であるために、あまり使わなかったとか。


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