6月


8日
ロベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann) (1810〜1856)ドイツ 作曲家

ツヴィッカウに書店を営む一家の末子として生まれる。音楽は8歳から学び、作曲も9歳からはじめ、11歳の時には合唱曲、管弦楽曲を作っています。

その後、ライプティッヒ大学に入学して法律を学びましたが興味がもてず、結局は当時著名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークのすすめもあって1830年から本格的にピアニストとしての訓練をはじめました。

また、1831年には「音楽新聞」へ寄稿して文筆活動もはじめ、自ら「音楽新報」を設立し、ロマン主義音楽の啓蒙活動を行いました。特に、1831年のショパン絶賛と53年のブラームス紹介は有名です。

1832年には、指を痛め、ピアニストを断念、活動の中心を作曲におくようになります。

1836年、ヴィーグの娘であったクララと恋におち翌年婚約しました。彼のピアノ作品はこのクララとの婚約時代に集中しています。そして、障害を乗り越え二人が1840年に結婚すると「歌の年」となり、ロマン主義ドイツ歌曲に重大な貢献を果たしています。その後も、管弦楽曲、室内楽と多くの作品を残しました。

しかし、かねてより徴候のあった鬱病の症状が悪化し、「音楽新報」の仕事から手を引きます。その後一時病状は好転して音楽的名声は高まりをみせましたが、1853年からは鬱病に起因する不安症状に悩まされるようになり、1854年にはライン河に投身する事件をおこして精神病院に入院してしまいます。

1856年、症状はますます悪化して、意識が戻っても会話もできないような状態になり、7月29日にエンデニヒで遂に入院したまま生涯を閉じました。
シューマンがクララと出合った時、彼女はまだ10歳に満たない少女でした。その後、彼女は、父親の手ほどきを受けて、天才少女ピアニストとして有名になっていきました。そして、シューマンと次第に美しく成熟していくクララとの間には、いつしか愛が生まれていきました。
二人は結婚を望みましたが父親のフリードリヒは頑強に反対。遂には訴訟沙汰となってしまいます。しかし、この裁判がシューマン・クララ側の勝訴に終わり、二人はようやく結婚することができたのです。

しかし、1940年までの数年に及ぶ緊張した恋愛関係は、シューマンの創作意欲をかき立て、今日一般にシューマンの名作として知られる諸作品の実に大半を、あふれるような勢いで生み出す原動力となったのです。
シューマンが指を痛めた理由

その1
当時「悪魔のバイオリニスト」といわれたパガニーニの演奏を聴き、その超絶技巧をピアノで表現できるピアニストになることをめざす。だが、指に器具をとりつける無理な練習をした結果だという説

その2
放蕩の果てに感染した進行麻痺(梅毒)の初期症状で、後にそれが進行して精神障害に至ったのではないかという説


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