6月 3日 |
佐々木信綱(のぶつな)(1872〜1963)国文学者 歌人 三重県の石薬師に、幕末の歌人で国学者の、佐々木広綱の長男として生まれました。彼は父について幼いときから歌と国学を勉強しました。 11歳のとき東京に出て高崎正風(まさかぜ)について歌を学び、東京大学古典科を卒業後、父の業をついで歌道を広めることと、万葉集の研究に一生をささげることを目的とさだめました。 雑誌「心の華」を通じて和歌改良運動に乗り出して、現代短歌の源流になりました。その特色は伝統的手法による穏健で地味な調和的作風にありました。その後、多くの歌集を刊行し、万葉風のおおらかな抒情世界を確立して、歌壇の第一人者となりました。 その一方で、明治38年(1905年)から昭和6年(1931年)まで東大で「和歌史」を教え、父とともに「日本歌学全書」を編集しています。 彼は「広く、深く、おのがじしに」を標語に「歌材は広く探求せよ、表現は深玄であれ、しかして各自の歌境を、おのおのの個性に、環境に求めよ」とし、門下からは川田順、九條武子、木下利玄、大塚楠緒子ら多くの歌人が輩出しました。 歌集「思草(おもいぐさ)」「新月」「山と水と」、研究所に「日本歌学史」「校本万葉集」「国文学の文献学的研究」などの著書が多くあります。昭和12年には第一回の文化勲章を受章しています。 昭和38年91歳の冬、熱海西山の凌寒荘で急性肺炎により亡くなりました。 |
「神の御倉も,樹梯のまにまに」(神のホクラもハシダテのまにまに、意味は、宝庫は,高い位置にあっても、梯子を掛ければ、登って、その中に入り自由に出来る)
と書くのが、彼がが東大で講義を始める最初であったそうです。 その、梯子として彼が作り上げた書物が、「校本万葉集」です。 「校本万葉集」とは、大正末年ころ20年近くの歳月をかけて編集された、万葉集に関する古来の研究論文集で,最新刊の岩波書店の本で20冊近くあります(「校本万葉集・新増補版,1979.5〜1982.8.岩波書店発行,全17巻) |
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湯ふねのゆ ほのあたたかみ鰐の群 そがふるさとを忘れたるらし この歌は、大正12年から鬼山地獄内で温泉熱を利用して飼育されている鰐(わに)を見て詠んだものです。 |
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障子からのぞいて見ればちらちらと雪のふる日に鴬が鳴く」 これは、彼が5歳の時の作だそうです。 |
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ひとの世の人のことばに限ありてわが此おもひいひ出がたき 罪なくて世を去りし人の世にあらば安けかりけむ寂しかりけむ 我命うせむ折にと思ひしを心よわくも洩らしつるかな 花に舞ひし昔の姿ゆめに見てさむればわが身埋火のもと 行けば行きとまればとまる我影のありやなしやもわきがたの世や 草深き父の御墓にぬかづきて昔の罪をひとり泣くかな われは唯ひとりぞ吹かむわれ知らぬ人にきかせむわが笛にあらず (思 草) ゆく秋の大和の國の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 世に生まれ出でざりしが最も幸と君が口より聞くべきものか (新 月) |
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