5月


30日
ベニー・グッドマン(Goodman・Benny)(1909〜1986)アメリカ クラリネット、サックス奏者 楽団指揮者

シカゴで縫製職人の家の3男に生まれました。父は無料で音楽が学べる地元の音楽教室に連れて行き音楽を学ばせました。彼はそこで10歳の頃からクラリネットを学びました。11歳でデビューし、生まれ故郷のシカゴでは早くから多くのグループに参加しました。

1923年伝説のコルネット奏者ビックス・バイダーベックと共演。1925年にはシカゴを離れ名門ベン・ポラック楽団に参加し、その後、1928年本拠地をニューヨークへ移して、多くのミュージシャン達と出会い、1929年ベン・ポラック楽団を離れソロイストとしての道を歩み始めました。

1932年に初めて自分のグループを結成し、1934年には自己の楽団を結成。NBCラジオに定期的に出演して全米にわたる人気を獲得して、「キング・オブ・スイング」と呼ばれるにようになりました。彼のバンドはスイング・ジャズ・オーケストラとして有名になり、1938年にはクラシックの殿堂カーネギー・ホールで史上最初のジャズコンサートを行っています。

グッドマンは小編成のグループでも活発に活躍し、その洗練された演奏は大いに賞賛されました。またオーケストラとともにジャズの大使として、しばしばアジアやヨーロッパを演奏旅行で訪れました。1958、64年に来日しています。

1986年6月13日ニューヨークの自宅で亡くなっています。

1955年には、ハリウッドで、貧しい仕立て屋の家に生まれ育った子供時代から、音楽の世界で成功するまでを描いた伝記映画「ベニー・グッドマン物語」が作られています。
スウィングジャズ
スウィングジャズの特徴 は、それまでのジャズとは異なり、編曲者の導入と楽譜を全て書き記す点にあります。以前のディキシーランドスタイルのジャズでは、耳で聴いてメロディーを憶えて演奏するミュージシャンが多く、彼らは演奏の場がステージ上だけに限られていたこともあり、楽譜がなくても別段困ることはありませんでした。
しかし、当時の最先端技術であったレコードとラジオが普及するにつれて状況が変わってきます。レコードの普及とラジオでの演奏機会の増加が、限られた時間内で演奏を終わらせる必要が生じ、また、レコードやラジオで聴いてステージを見に来る客の要望もあり、できるだけ同じ演奏が要求されます。こうなると記譜する以外に手はなく、こうした要望に応えるために、あちこちのバンドが優秀な編曲家を雇い入れるようになりました。
映画 ベニー・グッドマン物語

1919年、シカゴ。ユダヤ系のグッドマン一家は縫製職人の父を中心に、慎ましくも幸せに暮らしていた。3人の息子達に父は語る「いい本を読み、いい音楽を聴くのだ」。父は彼らを地元の音楽教室に連れて行く。ここではタダで音楽が学べるというのだ。
 身体の大きな兄達はスーザホンとホルン、歳の離れた末っ子のベニーにはクラリネットが与えられた。小さな楽器に不満げなベニイだったが、数年の内にめきめきと腕を上げる。「40年吹いて来たわしを6年で追い越すとは」と喜色満面の先生は「次はモーツアルトを」と意気込むが、ベニーはお金に繋がるラグタイムの仕事をやりたくて仕方がない。「ラグタイムなんて!」と止める先生の声を背に、ベニーは遊覧船のバンドに参加。

遊覧船でベニーはデキシーの神様キッド・オーリーの演奏を観る。「感じるままにスウィングするんだ。ニューオーリンズではみんなこうだよ」というオーリーの言葉を聴き、運命の出会いを感じたベニイは西海岸に移り、ベン・ポラックの楽団に参加、ポラック楽団で大活躍を遂げるベニーだが、久々に帰った故郷のシカゴでは、出迎えに来た父親が交通事故で亡くなるという悲劇にも見舞われた。ギャングが経営するモグリ酒場で演奏を続ける彼らに転機が訪れる。ニューヨークに出ないか、という誘いが来たのだ。そのためにはギャングのボスに話を付けなければならない。交渉役を買って出たベニイを迎えたボスは、なんと・・・。

ニューヨークに出たベニーはポラック楽団をやめ、自分のサウンドを模索する。しかし生活のために、つまらない仕事もやらざるを得なかった。そんな時、友人の妹アリスに「信念を貫くべき」と言われ、自らの楽団結成を決意する。NBC放送のオーディションに受かり、「ベニー・グッドマン楽団」のサウンドはラジオに乗って全米を席捲した。ラジオを通してファンを増やし、安定した人気を獲得する。

 そして終盤は上流家庭の子女であるアリスと、ベニーが一緒になれるのかが物語の中心となる。最後にはクラシックの殿堂、カーネギーホールでの公演も大成功を収め。すべてはハッピーエンドという結末である。


5月


30日
ダンテ・アリギエーリ

(1265〜1321)

イタリアの大詩人 イタリア国民文学の父 詩聖

フィレンツェの貴族の家柄に生まれ、早くから詩に才能を示し、ボローニャ大学で修辞学を学びました。

1295年、彼は医薬業組合に加入して政治活動に加わりましたが、フィレンツェでは内紛が勃発、彼は、政敵に公金横領罪などの罪を着せられフィレンツェからの永久追放と、逮捕されれば焚刑という判決を受け、フィレンツェを追われてしまいました。

彼は、ヴェローナ、ボローニャ、ラヴェンナとイタリア各地のや王侯の支持をえながら放浪の旅をつづけ、「俗語論」「饗宴」「帝政論」などを著しています。そして1307年から「神曲」の執筆にとりかかり、死ぬ直前の1321年に完成させています。

この「神曲」は、地獄編、煉獄編、天国編の3部からなる韻を踏んだ愛をうたった詩で、いろいろの苦しい世界を通って、本当の神の国にたどり着く様子がうたわれています。

そのころ、ヨーロッパではラテン語が使われていましたが、彼は自分の国の言葉であるイタリア語(トスカーナの方言)を使ってこの作品を書き、イタリアの人々も、彼の「神曲」によって、初めて国語の美しさを知ったといわれています。

彼は、ラヴェンナで「神曲」を完成後、ヴェネツィアからの帰途、生まれ故郷にもどることなく亡くなりました。
彼は名門ポルティナーリ家の娘ベアトリーチェに恋をし、1223年には、彼女への想いを詩作した「新生」を発表。しかし、その愛は実らず、1225年にはジェムマ・ドナーティと結婚していますが。ベアトリーチェへの愛が終生を通して創作の源泉となったといわれています。
彼の墓は、ラヴェンナ市内のサン・フランチェスカ教会の傍らにあります。天井の中心に奉納ランプが飾られているそうなのですが、このランプの油は毎年フィレンツェから贈られてくるものだということです。

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