5月


22日
坪内逍遥(1859〜1935)小説家・劇作家・評論家・翻訳家・教育家・文学博士。

安政6年、松平家の代官所役人の子として岐阜県美濃、太田に生まれました。小さい時から江戸時代の小説、とくに馬琴を愛読し、また、芝居見物にも熱心でした。明治16年、東京大学政治経済科卒業後、東京専門学校 (現早稲田大学) の教授となり、早稲田の文学を指導しました。

明治17年シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』を全訳刊行しました。

明治18年「小説神髄」を発表して、小説は写実主義を主にして人情を描くのが目的であると唱えました。この理論にしたがって「当世書生気質」を発表して、写実主義小説の先駆をなしました。その後、明治24年「早稲田文学」を創刊。森鴎外との没理想論争は有名である。

また史劇「桐一葉」「牧の方」などを発表、演劇の近代化を唱え、明治39年、島村抱月らと共に文芸協会付属演劇研究所を設け、演劇指導にあたり、新劇運動にも携わるほか、西洋楽劇・児童劇の運動にも及びました。

昭和3年日本ではじめてシェークスピアの全集40巻を個人で完訳をしました。その記念に早大演劇博物館が建設されています。

文学近代化の先導、演劇の革新、国劇向上、文学者育成などに果した功績は大きい。昭和10年、76歳で亡くなりました。
(小説神髄)
小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是れなり。夫れ人間は情慾の動物なれば、いかなる賢人、善者なりとて、未だ情慾を有ぬは稀れなり。賢不肖の辨別なく、必ず情慾を抱けるものから、賢者の小人に異なる所以、善人の悪人に異なる所以は、一に道理の力を以て若しくは良心の力に頼りて情慾を抑へ制め、煩悩の犬を攘ふに因るのみ。されども智力大いに進みて、氣格高尚なる人に在りては、常に劣情を包み、かくして其外面に顕さゞれば、さながら其人煩悩をば全く脱せし如くなれども、彼れまた有情の人たるからには、などて情慾のなからざるべき。哀みても亂るることなく、楽みても荒むことなく、能くその節を守れるのみか、忿るべきをも敢て忿らず、怨むべきをも怨まざるは、もと情慾の薄きにあらで、其道理力の強きが故なり。
写実主義
社会の現実および事物の実際をありのまま描写しようとする芸術上の立場。わが国では近世の井原西鶴、式亭三馬、為永春水などの文学にもそのような特徴はみられるが、特にヨーロッパの写実主義の影響は明治二〇年代に顕著であり、坪内逍遥、二葉亭四迷、尾崎紅葉、樋口一葉などの小説にみられる。
没理想論争
理想や主観を直接表さないで、事象を客観的に描くのを主とすること。また、そのような態度で描かれた作品の特質。明治二〇年代に坪内逍遥がシェークスピアの作品をそのように規定したことに対して、理想派の森鴎外が論争をいどみ、いわゆる没理想論争が展開された。

5月


22日
サー・アーサー・コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle)

(1857〜1930)

想像力が無ければ怖いものは無い。

イギリスの推理小説作家

イギリスのスコットランドのエディンバラ市で平凡な役人の息子として生まれました。

成長して、エディンバラ大学の医科に入学しましたが、家庭は弟妹が多く生活が苦しかったので、在学中も外科医の助手などのアルバイトをしていたそうです。(そのため卒業も級友より数か月遅れたといわれています。)大学を卒業したあとは、北洋の捕鯨船の船医になって北氷洋へ行ったり、アフリカ航路の荷物船に乗り込んだりもしましたが。23歳の時、ポーツマス港郊外のサウスシーに家を借りて眼科医院を開業しました。

ところが、患者はさっぱり来ず。暇と貧しさの中で彼は小説を書き始めたのですが、最初は人気もですさっぱりでした。が、彼はあるとき、大学時代の恩師ジョゼフ・ベル博士の特異な人格を思い出し、彼をモデルにシャーロック・ホームズを誕生させたのです。

その後、彼はシャーロック・ホームズの短編を「ストランドマガジン」に連載し、大評判になり、1892年に刊行した「シャーロック・ホームズの冒険」は、聖書に継いで広く世界中で読まれる書物となりました。

1902年にはボーア戦争での医師としての活躍し、ナイトに叙されました。彼自身はミステリーよりも、歴史小説やファンタジーへの興味が強く、自らは歴史小説作家をもって任じていました。また、第一次世界大戦での息子の死後、心霊現象に関心を寄せ、心霊術関係の本を進んで書くようになったそうです。1930年7月7日サセックスで亡くなりました。71歳でした
彼の父は公務員で、絵の才能がありましたが、アルコール依存症に苦しみ、晩年は療養所生活を余儀なくされました。夫婦には子供が10人も(成人したのは7人)おり、彼は貧しい少年時代を送りましたが、母はやさしく、彼は母の語るアイルランドの祖先の物語を夢中にをなって聞いていたそうです。
彼の祖父のジョンは風刺漫画家。父のチャールズは建築家。伯父のリチャードは風刺画家であり、「ポンチ」の編集者。大伯父のマイクル・コナンは美術評論家でした。
ホームズと半七

半七捕物帳の作者の岡本綺堂は、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物を原著でまとめて読んだのをきっかけに、江戸を舞台とした探偵小説の構想を得、1916(大正5)年からは『半七捕物帳』を書き始めたそうです。

5月


22日
リヒャルト・ワーグナー

(1813〜1883) 

「さすらいと変化を愛するのは生ある者である」

ドイツの作曲家・歌劇作者

フランス軍と、王国連合軍との戦乱の最中。ライプツィヒで生まれました。彼の父は警察の仕事をしていましたが、彼が生まれて間もなく病気でなくなり。彼の母は、その後、夫の親友でもあった、俳優のルードヴィ・ガイヤーと再婚しました。

新しい父親は、才能も今日もある人物で、芝居の台本を書いたり、絵を描いたりして、おさない彼に大きな影響をあたえました。しかし、1821年に義父もなくなり、一家は今度は叔父のアドルフ・ワーグナーに引き取られます。翻訳家をしていた叔父は彼にダンテやシェークスピアを教えたのでした。

彼が、15歳になった頃、初めてベートーベンの作品を聞き、彼は、感動のあまり音楽家になろうと決意したのでした。しかし、彼の作品は理解されず、不遇の時代を過ごしました。しかし、23歳のときに女優のミンナと結婚したことをきっかけに、オペラ「リエンチ」にとりかかり、彼はこの作品で「ライト・モチーフ」という登場人物に決まったメロディーをつけるという手法を編み出しています。

そして、1842年「リエンチ」はドレスデンの宮廷劇場で初演され大成功をおさめたのです。そして、この劇場の楽長に任命された彼は、続いて「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」などのオペラを発表し有名になっていたのですが、1849年ドレスデンの5月革命に参加したため追放され、リストの助けでスイスでの亡命生活を送りヨーロッパを転々とするのでした。

苦しく貧しい生活の中、かねてからワーグナーの音楽に心惹かれていた、18歳の若き王ルートヴィッヒ2世は、彼をミュンヘンに招き彼を援助します。

1870年57歳になった彼は、リストの娘のコージマと再婚し、バイロイトに移住します。そして、彼はこの地で、自分のオペラだけを上演する劇場を作ると言う夢をかなえたのでした。この劇場のこけらおとしには、台本着手以来26年を費やした四部作「ニーベルングの指環」が初演されました。

1883年2月13日、彼は保養のために訪れていたベネチアで心臓発作をおこし亡くなりました。
この「ニーベルングの指輪」は、序夜「ラインの黄金」、第一夜「ワルキューレ」、第2夜「ジークフリート」、第3夜「神々のたそがれ」演奏時間はなんと12時間以上という長大なもので4日に分けて演奏されました。彼のオペラは音楽と演劇が同じ重みを持っているという意味で「楽劇(がくげき)」と呼ばれています。
1976年完成したバイロイト祝祭劇場は、彼の死後も、妻コージマや子ども達によって受け継がれ、現在でも「バイロイト音楽祭」を開いて世界中から観客を集めていると言うことです。
彼の熱狂的崇拝者はワグネリアンと呼ばれ、追従・模倣する事をワグネリズムというそうです。その影響は、音楽界のみならず、思想家・文学者・画家・演劇家などのあらゆる芸術分野に及ぶということです。
コージマはリストの娘で、指揮者・ピアニストのビューローの妻でしたが、ワーグナーとむすばれるために離婚し、結婚のときには2児をもうけていたということです。

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