5月


20日
E・ブフナー(Eduard Buchner)

(1860〜1917)ドイツ 生化学者

ドイツのミュンヘンで生まれました。ミュンヘン大学、エルランゲン大学で化学を学び、のちフォン・バイヤーのもとで化学の助手、ネーゲリのもとで植物学を学んでいます。その後、兄ハンス(衛生・免疫学者)の助言で発酵の研究に進みました。

1896年、彼は別の実験(酵母菌体から薬理作用を持つ物質を抽出する)のために培養した酵母を磨砕(酵母をすりつぶして細胞構造を破壊)し、大量の糖を加えて(糖が多いと浸透圧の作用で微生物が生育できず、保存が可能)1日放置しておいたところ、死滅したはずの酵母が炭酸ガスを出しながら盛んにアルコール発酵しているのを発見しました。

彼はこの結果に驚き、早速その現象の解明に乗り出し、その結果酵母の細胞内から溶出してきたタンパク質の一種がアルコール発酵を引き起こすという、科学的触媒が起因であることを突き止めました。彼は、この物質が酵素であることを確認し、このアルコール発酵に関わる一連の酵素をチマーゼと名付けました。

これら一連の努力の結果、発酵現象を化学的に研究する道が開け、ここに発酵化学という新しい学問領域が成立したのです。

テュービンゲン大学、ベルリン農科大学、ブレスラウ大学、ウュルツブルク大学教授を歴任。1907年には「細胞なし発酵」によってノーベル化学賞を受賞しました。

第一次世界大戦にドイツ陸軍少佐として従軍し、ルーマニアにおいて戦死しました。
1789年にラボアジェが、アルコール発酵とは、ブドウ糖(グルコース)がアルコールと二酸化炭素に分解されることを突き止め、続いて、ゲイ・リュサックが発酵の化学式を1815年に打ち立てた(当時は、化学反応論が隆盛を極めていた。)。しかし、細胞説の提唱者であるシュワンは、発酵は酵母により起こる説を唱えていた。その後、発酵の原因をめぐる論争は、有機化学の開祖・ドイツのリービッヒと近代微生物学の創始者・フランスのパスツールの大論争で頂点に達することになるのである。
パスツールは微生物の発生は微生物によることを立証したが、ドイツのシュワンは(1810〜1882)、アルコール発酵は酵母という微生物によって引き起こされることを唱えた。彼は酵母の構造や増殖法を明らかにし、糖を発酵してエチルアルコールと炭酸
ガスを生成し、同時に酵母菌体も多く得られることまで明確にし、生物学的発酵説を主張した。この考え方にパスツールも異論はなく、アルコール発酵のみならず乳酸発酵、酢酸発酵、酪酸発酵などもそれぞれ乳酸菌、酢酸菌、酪酸菌によって起こることをパスツールは発見し、生物学的発酵説に確信を深めた。 ところがその頃、ドイツの著名な有機化学者リービヒ(1803〜1873)は「アルコール発酵は分子の振動が糖に伝わると、糖が分解してアルコールができる」とし、発酵作用が原子の機械的運動の伝達により起こるとして、「生物学的発酵説」に対して「科学的発酵説」を唱えたのだった。この説に対してシュワンやパスツールは激烈な反論を加え両説は鋭く対立した。だがパスツールにとっては無念なことに、この論争中、病死する。
この大論争は、1897年にブフナーが、酵母の絞り汁でも発酵が起こることを発見したことで、生きている酵母中の酵素が発酵の原因物質であることを突き止めて決着が付いた。ただし、アルコール発酵を安定して進めるためには、生きた酵母がもつさまざまな連携機能が必要であることも分かったのである。さらにパスツールは、微生物の研究によって、「ビールの変質を防ぐには、その中に存在する微生物の繁殖を押さえればよい。低温で殺菌することによって発酵がとまる。」ことを発見し、低温殺菌法を考案した。現在でも、この低温殺菌装置をパストライザーと呼ぶのは彼にちなんでいる。

5月


20日
オノレ・ド・バルザック

(1799〜1850)

「結局のところ、最悪の不幸は決して起こらない。
 たいていの場合、不幸を予期するから悲惨な目にあうのだ。」

フランスの小説家

ツールの豊かな官吏(陸軍糧秣部長)の家に生まれました。小さいうちから里子に出されたり、ヴァンドームの寄宿制中学校に入れられるなど、母の愛をあまい受けずに育ちました。

パリのソルボンヌ大学で法律を学びましたが、1819年両親の反対を押し切って文学に志し、パリの下町の屋根裏部屋にこもって古典悲劇の形式で「クロムウエル」を書き上げたのですが、悪評を浴び、それ以来小説に専念するようになりました。
1829年小説「みみずく党」を発表して認められましたが、ついで出版業に失敗して多額の借金を背負い、またさまざまな事業に手を出したがすべて失敗。このため超人的な多作で借金を払い続けたといわれています。

彼は「人間喜劇」という総合題名で焼く90編の小説を書きましたが、登場人物は2000人にのぼりこれはフランス革命から半世紀にわたる風俗・政治・社会史ともいわれ、豊かな想像力と鋭い観察力で人間と社会を描き写実派の祖、近代小説の父と呼ばれました。また「同一人物の再登場」という手法を考案し、作品全体に計り知れない奥行きをもたらしています。
彼は20年間、毎日50杯のコーヒーを飲みつづけて創作に打ち込んだといわれており、また派手な女性遍歴と浪費癖もに有名です。

そんな彼も、大勢の崇拝者の中の一人ハンスカ伯爵夫人に、熱い想いをよせ、彼女から結婚の承諾をえるまでになんと8年の歳月をついやし、結婚にいたったのは更に後のことでした。しかし、その時には、執筆による過労で健康を害し、結婚の半年後には亡くなってしまったのです。51歳でした。
作家の地位を得たバルザックは、自らを文学の貴族として、姓に貴族を意味する「de」を添え「de Balzac」と称するようになったということです。


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