5月


19日
西田幾多郎(にしだ きたろう)(1870〜1945)哲学者

明治3年、石川県宇ノ気町の旧加賀藩の十村役を務める家に生まれました。明治16年に石川県師範学校に入学のため金沢に移り、明治19年に後の旧制四高に入学します。

明治23年第四高等学校を自主的に中途退学して、独学の道を歩もうとしましたが、眼疾のため挫折。翌年、上京して東京帝国大学文科大学の哲学科選科に入学しますが、選科の学生は図書館でも室内に入れず、廊下で読書するといった屈辱を味わいました。 この間に生家が没落してしまい、卒業後は郷里の中学の分校で教鞭をとっています。

その後、日露戦争で弟の戦死や、子供の相次ぐ死が彼を襲います。そんな中、明治39年に明治時代の学生の大ベストセラー「善の研究」を発表。大正2年に京都大学の教授になります。

彼は、個人の存在よりも経験が根本であると言う「純粋経験」の立場に立って、東洋と西洋の哲学を合わせた世界哲学の構想を立て、京都大学では多くの秀才を集めて「西田哲学」とよばれる独自の哲学思想を確立しました。

昭和11年には、西田哲学の頂点とも言うべき「論理と生命」が発表され、昭和15年に哲学者として初めて文化勲章を受章しています。

6月7日は彼の命日です。別名寸心先生とも言われていたことから、その命日は哲学者や、弟子、彼に私淑する学者などから「寸心忌」として、毎年偲ばれ、郷里の宇ノ気町などでも、色々と記念行事が行われているということです。

※選科
規定の学科目の中から、一部を選択して修める課程。本科に準ずる課程。
七尾時代の青年幾多郎は毎日のように海辺へ出かけて白い波がしらに見入っていたという。下宿先の娘がある時、何を考えているのかを聞いたところ、「世界のことを考えている。世界というものは不思議なものだ」と答えたということだ。
結婚も地元七尾の得田耕氏の長女、寿美としている。翌年には長女が産まれている。後に彼は京都大学を退職する時回想的にこういった「私の一生は極めて簡単であった。その前半は黒板を前にして座した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向かって一回転をなしたと言へば、それで私の伝記は尽きるのである。」
大正8年に妻寿美が脳溢血で倒れ、5年間の闘病生活後に死去、9年には長男が死去する。
関係者が幾多郎の孤独な生活を見かねて、昭和6年に岩波茂雄の仲人で山田琴と再婚する。ここに晩年の安らぎが到来する。
西田幾多郎の長女弥生は、死ぬまでの10数年父親の生活は、琴夫人なくしては考えられないと、陰になって幾多郎を支えたことを認めている。弥生が死去した昭和20年4月に遅れること2か月、幾多郎は6月7日に逝去。
京都にある「哲学の道」は、近代を代表する哲学者の西田幾多郎がこの道を好んで散策したことから、いつ誰が言うともなく「哲学の道」と呼ばれるようになったそうです。「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」と、道の途中には彼の言葉を刻んだ碑も建っています。


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