5月


18日
サード・アール・バートランド・ラッセル(3rd Earl Bertrand Russell)

(1872〜1970)イギリス 哲学者 数学者 評論家

イギリスの名門ラッセル家に生まれました。が、1874年、彼が2歳のとき母と姉が、ジフテリアにかかり死亡。4歳の時には父も亡くなり、その後ロンドン郊外の父方の祖父母の下で過ごしています。(祖父は第6代ベッドフォード公爵の三男で、初代ラッセル伯爵。2度英国首相となっています。)

5歳になる少し前から幼稚園に通い(約1年半)。その後は、祖母の方針で、彼は学校へは行かず、ドイツ人やスイス人家庭教師によって教育を受けています。

ケンブリッジ大学に入り、数学、哲学を学びました。初め数学者として出発し、数学は論理学的概念に還元できるとして「数学の諸原理」、「プリンキピア・マテマティカ」 (A・ホワイトヘッドと共著) を著わし,のちの論理学に多大な影響を与えました。以後哲学の研究に入りイギリス経験論に立った認識論 (マッハ主義、新実在論 ) を展開しますが、ここでも数学の研究を通して得られた論理学の成果を取入れています。

第1次世界大戦が始まると、平和運動に従い、良心的兵役拒否者として六ヶ月間投獄されました。

第2次世界大戦後は原水爆の出現によって人類が滅びることを心配し、原水爆禁止運動を積極的に繰り広げ、また世界連邦の創設をとなえました。1967年にはベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁くため、国際法廷を開くよう訴えました。人間の幸福を増進するため「教育論」を書き、実験学校を開いたこともあります。

1950年には、ノーベル文学賞を受賞しています。
彼が17歳の夏、叔父さんの家で初めて、当時米国の学生であったアリス(ラッセルより5歳年上で彼の最初の妻となります)と出会い、一目惚れをしてしまいます。翌年から毎夏、叔父さんと過ごす3ケ月の間、毎日、4マイルの道を歩いてアリスの家にいくことを日課としていました。
1918年46歳の時の入獄体験
5月初め入獄(ブリクストン監獄:囚人番号2917番。禁固6ケ月の判決)。兄フランクの努力等により、絨毯が敷きつめられた、普通の独房より広い特別室(週2シリング6ペンスの室料)に入ることができた。机、椅子、ベット付で毎週3人だけ面会が許された。普通は午後8時消灯であるが、特別に午後10時消灯。
[刑務所での日課]:4時間の哲学に関する著述、4時間の哲学関係の読書、4時間の一般的読書)

9月には出獄しています。
1948年、彼が76歳のとき、兵器の拡散を阻止するためにソ連を原爆で脅かすことを主張しています。
彼はソ連は武力で脅かすことによって原子力国際管理を西側の主導権のもとで行うことに同意させることが可能であると表面上は主張しながら、その私信で明らかなように、ソ連が妥協することはありえないから、対ソ戦のための口実(ソ連のバルーク案拒否もそのひとつ)をとらえ、開戦も止む得ないと考えていたようです。
また、その年の10月、彼の乗った、水上飛行機が墜落し、彼は冬の北海に投げ出されましたが九死に一生を得ています。
(反ソ同盟にノルウェーを参加させるため、労働党英国政府の委嘱でノルウェーへ行く途中のことです)


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