5月


14日
ロバート・オーエン(Robert Owen)(1771〜1858)

イギリス 社会思想家 空想社会主義者 協同組合運動の創始者

馬具商の子として生まれています。苦しい生活ののち、産業革命時に紡績機械を使って成功し、1800年に、当時イギリス有数の紡績業者D・デールの娘と結婚して、大工場の支配人となりました。

人間の性格は環境によるものと信じ、ニュー・ラナークの自分の工場で労働時間を少なくし、労働者の住宅をよくし、日用品を安く売る売店を開き、保育園を作るなどして環境を整えました。

理想的な社会主義を夢見てアメリカに土地を買い、共同社会の共産村を作りましたが失敗してしまいます。

その後、自分も労働者の仲間入りをして労働者の生活改善につとめ1833年の工場法の制定に努力し、労働組合や協同組合の創始者となり、社会主義を理想としながら活動しました。

著書に「新社会観―人間性格形成論―」、「ニュー・ラナーク住民への講演」などがあります
空想的社会主義
科学的社会主義に対して、エンゲルスが名づけたオーエン、サン=シモン、フーリエらの社会主義理論。現実の生産関係や階級闘争を無視し、未来の理想社会を、人間、理性、正義一般の解放として主張する立場。
科学的社会主義
マルクスは資本主義を経済学的、歴史的に分析したうえで、社会主義は歴史の必然として、労働者の階級闘争によって社会主義が実現されるとする科学的社会主義を掲げました。そして、1848年には共産党宣言を発表し、1864年には労働者の国際的連帯を目指した国際労働者協会(第一インターナショナル)がロンドンで結成されました。以後、マルクスの理論はヨーロッパの労働運動へ大きな影響を与えたのです。1867年、マルクスは『資本論』第一巻を発表しました。マルクスの協力者エンゲルスは『空想から科学へ』などの著作があり、様々な活動を行いました。
オーウェンの性格形成原理は、次のように説明されています。
適当な手段を用いれば、どんな一般性格でも、最善のものから最悪のものまで、もっとも無知なものからもっとも知識のあるものまで、どんな社会にも、広く世界にさえも、与えることができのです。しかもその手段の大部分は、世事に影響力をもっている人たちが意のままにし、支配しているところのものなのです。

5月


14日
斎藤 茂吉(さいとう もきち)(1882〜1953)

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり

歌人、医学博士

山形県で守屋熊次郎の三男として生まれました。彼の才能にいち早く気づき、彼を導いたのは守谷家の菩提寺・宝泉寺の佐原蔭応和尚でした。彼は和尚から「日本外史」等の歴史書や中林梧竹流の書、宗教について学んだといわれています。

高等小学校卒業後は、親戚の医師、斎藤紀一の勧めで上京し、大学(東大医学部)入学、斎藤家の庇護の下に、医学を学び、ながら卒業後は、斎藤家の次女と結婚し、養父の青山脳病院を受け継いでいます。(長男・斎藤茂太、次男・宗吉(北杜夫)が生まれています。)

彼は、仕事の傍ら、伊藤左千夫に入門し「馬酔木 (あしび)」に参加し、根岸派の有力作家となりました。また、明治41年「アララギ」が創刊されると、左千夫を助けて編集や作歌、歌論に活躍しました。

大正2年には、歌集「赤光」を刊行して、新時代の上官を万葉調でうたいあげました。アララギ派の中心人物として大正期以後の歌壇の中心になりました。また、子規の写生説を深めて、「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」という「実相観入」の歌論を発表しています。

戦時中は戦争賛美の歌を詠み、敗戦の後、自責の念にかられ、その思いは、歌集「白き山」に見ることができるといわれています。昭和28年2月25日に亡くなりました。72歳でした。
彼は生涯に17の歌集を出版し、生涯に18000首に及ぶ歌を詠んでいます。また随筆や評伝でも多くの著書を執筆し、「柿本人麿」では学士院賞を受けています。また彼の長男茂太は医師・エッセイストとして、次男宗吉は小説家(北杜夫)として有名です。
芭蕉に山形県の山寺で作られた「静けさや岩にしみいる蝉の声」という有名な句がありますが。同じ山形県出身の医者であり歌人であった斎藤茂吉はこの蝉を「アブラゼミ」と解釈し、「ニイニイゼミ」だと主張した小宮豊隆との間で二年越しの論争をしたそうです。芭蕉が山寺を訪れた時期が文献的に証明され、芭蕉の訪れた時期から見ると、あぶら蝉は盛夏に多く、ニイニイ蝉ではないかと落着しました。しかし、時期や時刻から、蜩(ひぐらし)かもと今だ論争は続いているともいわれています。


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