5月


13日
ロナルド・ロス(Ronald Ross)(1857〜1932)イギリス、医師

インド(当時英領)ヒマラヤ山麗で生まれました。8歳のときイギリスに帰り、ロンドンのセント・バーソロミュー病院で医学を修め、船医となりましたが、1981年にマドラス軍医学校に入り、インド軍医団に入ってインドに渡り、1885年の第3次ビルマ戦争にも参加しています。

その後、休暇でイギリスに帰っていた彼は、イギリス人医師マンソンの熱帯病学の講義で、それまでマラリアは腸内の中毒で起こると考えられていましたが、それが原虫によるものであること、しかも蚊がそれを媒介すると聞かされました。

それは彼にとって衝撃的な話でした。それまでの彼は、父親の希望でやむなく医者になったので、あまり医学に熱中できませんでした。が、彼にとって天変地異ともいえるマラリア原虫説は、それまでの彼の性格を一変させ、蚊の伝播説を立証するための熱心な研究が始まったのです。

彼は研究室で各種の蚊を飼い、それにマラリア患者を刺させ、その虫体を調べる方法をとり研究を続けました。そして,ついに蚊の唾液腺の中に幼虫がいることを突きとめたのです。そして、この原虫は、蚊の咬刺で感染することも突きとめました。ついに彼は、マラリア原虫の発育環を明らかにしたのでした。この偉業に対し、1902年度のノーベル生理学・医学賞は,彼の手にもたらされました。

その後、イギリス王立熱帯病学校病院院長やロス研究所の所長を歴任しています。

彼はまた数学・小説・詩・速記術などにもすぐれた才能を発揮しています。
当時,インド駐留のイギリス陸軍だけをみても,17万8千人の兵隊のうち7万6千人がこの病気にかかり,難治であるため生涯その病気に苦しめられていたのである。
当時、マラリアは腸内の中毒で起こると考えられていました。マラリアは蚊によって広められるという学説をたてた一部の研究者に対して、世間では、蚊が病気を移すことができるはずはないと頭から信じず、一様に反発をかい、世間の嘲笑さえ受けていたそうです。
なかなか研究が進まないある日、フセイン・カーンというマラリア患者が来て、一種の蚊をロスに示しました。この蚊はロスがいまだ注意しなかったもので、その学名を知らないので、彼はこれをブラウン蚊と呼びました。この蚊にカーンの血液を吸わせ、毎日その蚊の胃を検査しました。時は8月19日、ロスは1匹のブラウン蚊の胃壁に小球体を発見します。この小球体は蚊が患者の血液を吸って、4日後に発生することがわかり、またこの小球体の発育することがわかりました。

その後カルカッタに移った彼は、立派な研究室と助手マホメド・ボックスを得て、蚊の研究に没頭します。ボックスは、スズメなど鳥を捕えて、鳥のマラリアについて研究しました。蚊がこのマラリアの鳥の血液を吸い、7日頃に胃壁に生じた球体が破裂して紡鍾状体が出て、この小体は蚊の体内に入り、ついに唾液腺に集まるのを発見しました。これでロスは蚊が刺すことによって、マラリアを人体に伝えられることを考えたのです。

彼が助手ボックスとともにスズメについて試験し、蚊が鳥マラリアを伝藩することを確実に証明したのは、1898年6月25日のことでした。彼はこの結果を、マンソンに電報で知らせています。マンソンは、彼の成加を大いに喜び、この電報をエジンバラの学会において披露しました。学会はロスの研究をー大発見とし、これによって人のマラリアの伝染の仕方をも明かに出来るものとして大いに賞賛しました。

5月


13日
マリア・テレジア(Maria Theresia) (1717〜1780)

フランス王ルイ16世の妃マリ・アントアネットの母。 

オーストリア大公。ハンガリーおよびボヘミアの女王を兼ねた。

ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝カール6世の娘として生まれました。1736年にロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚し、ハプスブルク=ロートリンゲン家が成立しました。しかし、父カルル6世には、他に嗣子がいなかったため、国事詔書を公布して娘マリア・テレジアにハプスブルク家を継承させようとしましたが、従妹の夫バイエルン選帝公カール・アルベルトはこれを認めずに相続権を主張し、この相続問題にフランス、プロシアなどが介入し、オーストリア継承戦争へと発展していったのでした。

一時は、カール・アルベルトはフランスの支援により全選帝侯の支持を得、ドイツ皇帝に選ばれカール7世を称しましたが、ハンガリー貴族の支援を受けたオーストリア軍も反撃の手をゆるめず、カール7世の載冠式の日にはバイエルンの首都ミュンヘンを占領し、戦いが一進一退を続ける中、1745年カール7世は戦乱の中歿しました。

その後、1748年4月18日にアーヘンの和約が成立し、テレジアのハプルブルク家の全家領の相続とフランツ1世の皇帝位が認められ、ここにオーストリア継承戦争が終結しました。しかし、プロイセンに対してはシュレージェンおよびグラッツを割譲しなくてなならず、テレジアのフリードリヒ2世に対する憎しみは永遠に消せないものとなりました。

彼女は、夫を神聖ローマ皇帝フランツ1世として就位させ、さらにフランス,ロシアを味方として、七年戦争によりシュレジエン奪回をはかりますが失敗。

以後国政改革により近代的中央集権国家の確立に努力し、自国を近代国家に変革するべくあらゆる面にわたって画期的な刷新を図りました。今日のオーストリアの諸制度の中で彼女の影響がないものはほとんどないとさえ言われたそうです。

夫の死後は、長男ヨーゼフ2世をオーストリアの共同統治者、神聖ローマ皇帝としましたが、憎いライバルのフリードリヒ2世のまねを好む急進的で非現実的な息子に心を痛めていたそうです。彼女の娘達は欧州各国の君主に嫁ぎましたが、彼女はその最期まで末娘マリー・アントワネットの将来を案じ、1780年11月29日、肘掛け椅子に座したままの姿勢で息を引き取ったといわれています。
7年戦争

彼女は、憎いフリードリヒ2世からシュレジエンを取り返すべく、ロシアのと同盟を結び、宿敵フランスとも同盟する決意をします。彼女は、フランス王ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人に近づき同盟に成功。これは外交革命とまで言われるようになりました。

彼女の行動に危機感を抱いたフリードリヒ2世は、イギリスに近づき1756年、先制攻撃を仕掛けます。七年戦争のはじまりです。しかし、彼は、この三国同盟を破ることができずに、逆にベルリンにまで迫られ、フリードリヒ2世は自殺をも考えるほどに追い詰められていたそうです。

しかし、1762年には、フリードリヒ2世に憎しみを抱くロシア女帝エリザベータが歿し、継いで即位した甥のピョートル3世がプロイセンと攻守同盟を結び、これにスウェーデンも加わるなど講和の方向へ転じたため、これ以上の戦争継続は無理と判断した彼女は、とうとうシュレジエンをあきらめ1763年フベトゥスブルクの和議によりプロイセンのシュレージェン領有を認めました。
女帝のライバル、プロイセン王フリードリヒ大王は、「いまやハプスブルクには大いなる男がいる。それは一人の女である」と言ったそうです。


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