5月


12日
フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)(1820〜1910)

彼女の父はウィリアム・エドワード・ショー、母はフランシーズ・スミスといい、いずれもイギリスの上流階級の家の出身で1818年に結婚、ヨーロッパ大陸に新婚旅行に行って、その途中で二人の子供をもうけています。ナイチンゲールはフィレンツェ(フローレンス)で生まれました。(帰国は1821年です。)

彼女が看護に目覚めたのは24歳の時でした。彼女は修道女のように病院で病気やけがの人の世話をしたいと言い出します。そして翌年、従兄のヘンリー・ニコルソンの求婚を断って近所のサリスベリの町の病院に入って仕事をしながら看護の勉強を始めました。その後、ローマの保養所に移り、ここでその所長のシドニー・ハーバートと出会います。

1853年イギリスに戻っていた彼女は、ロンドンの貧困女性病人援護の会の会長に推されます。そして翌年、イギリスはクリミア戦争に出兵します。この時、シドニー・ハーバートが軍務大臣になっていました。戦場で多くの兵士が満足な手当も受けられないまま死んでいっていました。シドニーは彼女にこの戦争の戦病者・戦傷者の看護を依頼します。彼女はただちに38名のボランティアの女性を組織して、戦地に向かいました。34歳でした。

現地に行ってみるとそれはひどい惨状でした。38人の看護婦は、昼も夜も、薬とほう帯を持ってかけまわりました。なかでもナイチンゲールは、傷のおもい兵士のところへまるで魔法使いのようにあらわれ、母親のようなやさしいことばをかけてやりました。みんなが寝静まったあとも、たったひとりで、ランプをかかげて広い病室を見てまわりました。傷ついた兵士たちのかわりに、兵士の家族や友人へ、あたたかい手紙も書いてやりました。彼女らのチームは野戦病院の衛生環境を強引に改善し、死亡率を数パーセント下げてみせました。

クリミアでの人間わざでは考えられない働き、緊張と重労働の連続であったナイチンゲールは、帰国後すっかり体を悪くしてしまい、それからは車イスの生活になってしまいました。それでも、今の陸軍の医療や衛生業務ではクリミアと同じような悲劇が起こると考え、陸軍省の衛生業務を改善する仕事をはじめました。

1960年にはナイチンゲールの名前を冠した看護学校がロンドンにできました。彼女はその学校での指導要領などにも細かいところまで注意をはらい、翌年にはアメリカから勃発した南北戦争での衛生管理について質問を受けています。

1872年には国際赤十字のアンリ・デュナンがナイチンゲールを高く評価する声明を出し、1887年には英国看護協会の設立に助力しました。そして1907年には女性としては初めて、メリット勲章を授与されました。

そして1910年、ナイチンゲールは、90才の長い一生を終えました。イギリスでは国家に勲功のあった人はウェストミンスター寺院に葬られるならわしでしたが、ナイチンゲールの遺言で彼女は父母の元に眠りにつきました。
クリミア戦争の時、彼女はチームのやり方を軍の首脳部に納得させるために彼女が発明した統計グラフを使用しました。これは当時としては非常に独創的なものでした。単なる数字ではなく視覚に訴えるものの説得力は強く、彼女の考案したグラフの様式は今でも使われているそうです。
彼女はこの手法の考案者として後に英国統計学会の会員になり、米国統計学会の名誉会員にもなっています。
看護の道に進むことを家中のみなから反対されますが、彼女は自分の道をつらぬくために、一人でこっそりと勉強することにしました。うわべは社交界の美しき花形、真夜中から明け方まで医療の勉強をしていくナイチンゲール。この二重生活で疲れがたまっていきました。
体の具合が悪いのではと気づかった両親は、気分が変わるのではと思い、ナイチンゲールをヨーロッパ旅行に行かせました。しかし、この2度目のヨーロッパ旅行で、彼女は、修道院の尼僧看護婦などと働いたり、慈善事業の実際を見たりして、看護技術が大変重要であることを知ったのです。
1851年春、姉が体をこわしカールスバートへ温泉保養へ行くおともをした彼女は、温泉保養という名目で、実は、保養地の近くのあこがれのカイザースベルト病院で看護の訓練を受けました。それは、きびしい訓練で、朝は5時に起き、夜は孤児院の床の上に眠り、食事もそまつなものでした。みよりのない子供の世話をして、ひととおり病気についての知識を学び、看護の仕方をみっちり勉強しました。
当時の上流階級では女性にはあまり教育は行わず、早く結婚して夫に仕えていればよいという風潮がありました。しかし伝統のあるナイチンゲールの苗字を継いだ二人の父ウィリアムは、女性にも教育は必要であるという考えからこの姉妹にイタリア語・ラテン語・ギリシャ語などの外国語をはじめ、哲学・数学・天文学・経済学などの本格的な教育を受けさせました。

ナイチンゲールが看護の道に進むことを母や姉は最後まで反対していましたが、父はしっかりした考えをもった33才の彼女を認め、年間500ポンドを与え、ロンドンにある小病院の無給の院長になることを許しました。
彼女は25歳の時の最初の求婚(従兄のヘンリー・ニコルソンの求婚)の他に2度プロポーズをされています。2度目はサリスベリで駆け出しの看護婦だった時ですが、散々悩んだ末、上流家庭の奥方におさまってしまえば「神様への奉仕」ができないと結論を出し、断っています。3度目は38歳の時ですが、彼女はその求婚者を姉のパーシノープに譲っています。

5月


12日
青木昆陽(あおき こんよう)(1698〜1769)江戸時代の蘭学者・儒学者

江戸日本橋の魚屋の子として生まれました。幼いときより学問を志し、京都の伊藤東涯に儒学を学び、27歳のときに江戸で塾を開き、やがて町奉行大岡忠相にみとめられました。

当時は、庶民・農民にとって、非常に苦しい時代でした。大商人による米相場の操作、たび重なる飢饉や蝗害が、民衆による米問屋襲撃、農民一揆などの事件を引き起こしていました。彼は、この世の中の窮状を少しでも変えようと、「蕃薯(ばんしょ)考」を書いて将軍徳川吉宗にききん対策用にサツマイモの栽培を進言しました。

彼は苦労の末、甘薯栽培を成功させ、その功を認められ、将軍から直接ご褒美を賜っています。甘薯の栽培に取り組んでから、4年後のことでした。甘薯は、その後全国に広がり、飢饉に苦しむ農民たちを救っていきます。彼は、その功績によって「甘諸(かんしょ・サツマイモ)先生」とよばれるようになりました。

のち吉宗の命によってオランダ通詞からオランダ語を学び「和蘭話訳」「和蘭文字略考」を著しました。彼の蘭学の知識は門人の前野良沢に継承され、蘭学がさかんになる一因となり、「解体新書」の翻訳となって結実しました。

彼は晩年、富士山を望む景勝地の目黒を好み、大鳥神社裏に別荘を構え当時ご住職であられた須田一族の篤信を得て隠居所とし明和6年10月12日に亡くなりました。

生前自ら「甘藷先生墓」と刻んで遺言として、「死後は目黒に葬り、父と娘も一緒に改葬して欲しい」と残され、今でも目黒不動の杜の一角に彼の墓はあります。
いつの頃からか、昆陽は「芋神さま」として敬われるようになりました。そして「芋神さま」をまつる昆陽神社が建立されるに至りました。また、幕張町4丁目には、甘薯試作地の地碑が建てられています。全国の何万人という人々を飢餓から救った甘薯が、最初に根づいた土地です。

また、彼の墓がある目黒不動には、甘藷組合が明治44年10月に「昆陽青木先生之碑」や芝・麻布の甘藷組合が建てた「甘藷講碑」があり、毎年10月28日の目黒不動の緑日に青木昆陽の遺徳を偲んで「甘藷まつり」が催されているそうです。
甘薯の試作地のひとつに選ばれたのが、いまの千葉市幕張の下総馬加村(「まくわりむら」または「まかむら」)、です。馬加村は地味の少ない砂地だったために、痩せた土地でも、甘薯が栽培できることを証明するため選ばれたのです。このことは、当時の馬加村の農民が、痩せた土地のために、いかに苦しんでいたかを物語っています。

ほかの試作地では栽培に失敗するところもありましたが、馬加村では、昆陽が苦労の末、甘薯栽培を成功させます。馬加村の土地に、文字通り根づいた甘薯は、その後全国に広がり、飢饉に苦しむ農民たちを救っていったのでした。

甘薯栽培を始めてから約40年の後(昆陽没後10数年後)に、天明の飢饉が起きました。歴史の教科書にも載っている、全国規模の大飢饉です。しかし、この大飢饉にもかかわらず、馬加村では一人の餓死者も出さなかったと、記録には残っています。


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