5月


11日
アーヴィング・バーリン(Irving Berlin)(1888〜1989)アメリカ ポピュラーソングの作詞・作曲家

ロシア(現ベラルーシ)のテムンで生まれました。幼いときにアメリカへ移住、ニューヨークで育っています。幼いころから家計を助けるために旅芸人となって街頭で歌ったり、カフェの給仕兼歌手として働いていました。

見よう見まねで作曲を試み、1907年に初めて作品が出版され、1911年に「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」を発表。これが大ヒットしソングライターとしての名声を確立しました。その後、「オールウェーズ」「ブルー・スカイズ」等の名曲を作り、1914年の「ウォッチ・ユア・ステップ」をはじめブロードウェイのレビューを次々に手がけ、1935年の「トップ・ハット」など映画音楽も数多く書いています。

最大のヒット曲にクロスビーが歌って有名にした「ホワイト・クリスマス」、又、ミュージカルの名作に「アニーよ銃をとれ」があり、庶民的な親しみやすさが最大の特徴でした。

彼は、ジェローム・カーンから「バーリンはアメリカの作曲家ではなく、彼自身がアメリカの音楽なのだ」と言われ、又、アメリカのシューベルトとまで謳われました。

ジョージ・ガーシュウイン、リチャード・ロジャース、コール・ポーターとならんで、ブロードウエイミュージカルの作曲家の四天王のひとりと称された彼は、生涯で1500曲以上の作詞、作曲を行なっています。1989年に101歳の長寿を全うしました。
彼は、遊んで暮らせるほどの富を築いていたのですが、1929年の大恐慌でなんと破産してしまったのです。しかし、アービング・バーリンは、「おかげで好きな仕事に戻れた」と言いつつ作曲を続け、日本でもおなじみの「ホワイト・クリスマス」などのヒット曲を立て続けに世へ送り出して、アメリカ一のポピュラーソングの作曲家となったのです。
彼は音楽教育を受けておらず、音符も読めなかったそうです。そのせいか、「キーを変えるための特製のペダルの付いた独特なピアノを使用していた」とか「楽譜が読めなかった」とか「バーリン自身はとんでもない音痴で(だみ声だったかも)、その曲の作者であるという免罪符がなければ他人が聞けたモノではなかった」などという噂があったそうです。
上記のうわさ(とんでもないだみ声)について1943年の"This is Army"という映画に彼が出演して"OH HOW I HATE TO GET UP IN THE MORNING"という曲を歌っているそうです、機会があれば確認してみてください。
アニーよ銃を取れ

物語の舞台は1880年代中頃です。シンシナティ付近に住む無教養な娘、アニー・オークリーは、その抜群の射撃の腕前を認められて大西部ショウを上演して回っているバッファロービルの一座に加わる事になりました。同じ一座の射撃の名手フランクバトラーに一目ボレしてしまったアニーですが、すぐにアニーの方がバトラーを凌ぐスターになったため、ロマンスには発展しませんでした。でも、ニューヨーク州で行われた射撃コンテストでフランクと対戦したことで2人の関係は…続きは映画を見てくださいね(^^ゞ

5月


11日
カール・フリードリッヒ・ヒエロニュムス・フォン・ミュンヒハウゼン

(1720〜1797)ドイツ軍人、狩猟家、冒険家

彼は、小説の主人公の「ほら男爵」としても有名ですが、実は、彼は実在の実在の人物で、由緒ある貴族の子として、ボーデンヴェルダーで生まれました。

彼は、ドイツ軍人で、狩猟家、冒険家としても知られ、若くしてロシアのフリードリッヒ大王の騎兵隊長を務め、ロシア戦役、トルコ戦役に出た彼は、多くの場所を転戦して得た見聞を、1760年に領地のホーデンヴェルダーに帰ったのち、近くのハノーバーなどで友人と社交サロンを開いて、面白おかしくしゃべって聞かせていたそうです。

彼のしゃべる、ほら話は徐々に有名になって行き、この人々を煙に巻いたこの途方もない話をもとに、詩人のゴットフリート・アウグスト・ビュルガーが「ほら吹き男爵ミュンヒハウゼンの冒険」としてまとめ出版したところ、これをロンドンでラスベと言う人が翻訳。これがベストセラーとなり、世界中に「ほら男爵」の名が広まったのでした。
「ほら吹き男爵ミュンヒハウゼンの冒険」の一部あらすじ

狩の最中、ミュンヒハウゼン男爵は見事な大鹿を見つけて、これを鉄砲で撃とうとしたのですが、なんと弾丸を撃ち尽くしてしまっていました。そこで、彼は、さくらんぼの種を銃に込めて鹿を撃ちます。弾は、みごと命中するのですが、さくらんぼの種の玉では、しとめる事かなわず、逃げられてしまいます。そして数年後、彼は、10フィート余りの桜桃の木が頭に生えたあの時の大鹿を見つけて、今度は見事にしとめて、鹿の上肉だけでなく、さくらんぼのソースを同時に手に入れることができたのでした。
ミュンヒハウゼン男爵が名馬にまたがり、押し寄せるトルコ軍と戦っていたときのこと。彼は敵を町の外に追い払ったあと、愛馬に水を飲ませていたのですが、馬がいつまでたっても飲みやめないため、馬の背中を鞭で叩いて落着かせようとすると、なんと、鞭が馬に当たらず空振りしてしまいます。思わず、彼が振り返ってみると、さぁ大変。馬の後半分がありません。そして、切られた胴体からは、さっきから飲続けている水が流れ落ちているではありませんか。実は、逃げる敵兵を追いかけていたときに、要塞の防備用の落し戸が落ちてきて、馬が真っ二つになってしまていたのです。彼は、前半分の馬に乗り、元気に牧場で跳ね回っていた後半分を見つけて、蹄鉄工を呼び、二つに分かれていた馬身を簡単にくっつけて、元通りの一匹の馬にしたのでした。
その他にも、彼が狼におそわれたときの話では、狼の口の奥へこぶしを突っ込み、内臓をつかんで「手袋のごとく」裏返してやっつけてしまった。などという、本当に楽しいほら話が満載です。

子どもの頃を思い出して、一度図書館などで探して見られてはいかがでしょうか。


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