5月


10日
小泉信三(1888〜1966)経済学者

小泉信吉の長男として東京で生まれました。小泉信吉は福沢諭吉を助けて慶応義塾を立派な学校にし、その塾長もつとめましたが、彼が6歳のときに亡くなり、福沢諭吉は、この親友の忘れ形見である彼を特に大切にしました。

その後、彼は、慶応幼稚舎、普通部を経て慶應義塾を卒業して海外に留学し、ドイツのベルリン大学やイギリスのケンブリッジ大学で経済学、社会学を勉強しました。帰国して慶應義塾大学教授になり、経済学者として多くの本を書きましたが、昭和のはじめに書いた「経済原論」は名著と言われています。

1933年(昭和8年)に慶応義塾の塾長に選ばれました、終戦後の1947年にしりぞいた後、東宮御所教育参与として皇太子明仁親王(現天皇)の教育にあたりました。

皇太子の家庭教師であったヴァイニング夫人と共に、陛下の少年時代の人間形成に良き影響を与えたといわれています。又、皇太子と美智子妃とのご結婚に際しても、皇太子のよきアドバイザーとして尽力されたといわれています。

その一生は師の福沢諭吉のように、一貫して教育者の立場にありました。1959年に文化勲章を受章しています。
主な著書
『海軍主計大尉小泉信吉』(文藝春秋)
『ペンは剣よりも強し』(恒文社)
『福沢諭吉』(岩波書店)
『マルクス死後五十年』(泉文堂)
『近代経済思想史』(慶應義塾大学出版会)
『わが文芸談』(講談社)学徒出陣
ヴァイニング夫人
1902年10月6日、米ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。ブリンマー大、ドレクセル大学院卒。46年10月から50年12月まで日本に滞在し、当時皇太子だった天皇陛下の家庭教師を務めたほか、学習院でも英語を教えました。50年11月に勲三等宝冠章を受章。帰国後に「日本での四カ年」(51年)「皇太子の窓」(52年)「天皇と私」(70年)を執筆。「皇太子の窓」は各国語に翻訳され反響を呼びましだ。多くの児童文学や伝記を著し「旅の子アダム」(42年)で児童文学のニューベリー賞、「サンディ」(45年)でヘラルド・トリビューン賞を受賞。文学・教育学博士。国際基督教大などから名誉博士号も受けました。
義塾からの出陣学徒は、二千八百六十三人。その多くは幹部候補生として陸海軍へ入っていった。十月二十一日、雨の神宮で行われた出陣学徒壮行大会はあまりに有名だが、義塾ではこの二日後に三田で壮行会を開催。三千余名の塾生が三田山上で塾歌、応援歌を熱唱し、隊列を組んで福澤諭吉の墓を詣でて、戦勝を誓った。
ときの塾長小泉信三は、出陣学徒に対し次のように激励している。「今、別れに臨んで、特に新たに言ふべき事は何もない。私は諸君を知っているつもりである。諸君も亦た私の言はんと欲することを知ってゐるであらう。たゞ言ふ。『征け、諸君。君国のために。父母の墳墓の地を護らん為めに』」(『三田新聞』祝塾生諸君出陣特集号)。
学徒動員を受けて「教育界は之により極めて大なる影響を蒙ることゝなれり」と落胆した小泉塾長にとって、勇ましいこの言葉はむしろ悲痛な響きをはらんでいた。
戦争を避けたいと、父は父なりに要路の方に働きかけもしたようですが、戦争は始まってしまいました。
戦後、戦争中の行動を調べに来た米軍人に父は「私は戦争に反対したが、始まった以上勝つために出来る限りのことをした。国を愛する者として当然だろう」と云い、米軍人は「Oh fine」と云ってそのまま帰りました。
ご長女の秋山加代さんの話です


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